2001年 11月16日 金曜日

政治と戦争


 クラウゼビッツの「戦争は、政治の継続、暴力的手段による政治の継続である」は、「政治は、戦争の継続、平和手段による戦争の継続である」と読みなおすべきである、という議論についてはすでに取り上げたことがあった。アフガニスタンの「タリバンの退却後」という新情勢をみるにつけても、いっそうその感を深める。エゴイズムのための戦争がエゴイズムのための政治を生んでいるのである。

 小泉政治には常に戦争という到達点が設定されている。軍隊と戦争準備が先に準備されているのである。「作る会教科書」問題、靖国神社公式参拝、海外派兵、小さな政府づくり、どれも戦争の遂行という目標から導き出される政策である。

 戦争の本質をこう表現してみよう。「戦争は殺すべき人々と、殺してもやむを得ない人々と、殺すべきでない人々の差別化を本質としている」と。軍隊の主たる仕事はこの差別作業である

 とすれば、戦争の、別の方法による表現である政治活動の本質ももまた差別作業なのであろう。住民のなかから定住外国人を取り出して差別する「定住外国人の選挙権問題」しかり。アメリカが自らの敵勢力と考える国や勢力を日本の敵として差別する日本外交、しかり。死者の中から天皇のために死んだものを取り出して差別する靖国神社問題、しかり。


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