2001年 10月1日 月曜日

対象物の崩壊がもたらすもの


 『創 (つくる)』10月号で「小泉人気は誰が作ったか」という座談会をやっている。そのなかで『インサイダー』編集長高野猛氏が次のような発言をしていた。人間一般の議論としてもいいところを衝いていると思う。高野氏は、日本はある時期まで家庭や学校や政治に対する自信を持っていたのに、いまやそれをなくしてしまっていると指摘し、

 
 

そのことは、個々人にとってみれば、対象物が壊れたということだけではない。自分そのものが壊れたんです。 

 

と述べ、ここから、国民は「自分が希望を託せるものはないか、無意識のうちに飢えたように探している。そういう状況のなかで小泉人気が生まれた」と展開している。

 小泉問題については後日書くとして、今日は自分の問題。
 学校はこんなもんだという学校のアイデンティティがある。そこで仕事をする教員はこんなもんだというアイデンティティがある。ところが、時代の流れのなかで学校がいままでのアイデンティティを喪失してしまう。

 そんなとき我々は攻撃的になる。こんな学校じゃいかん、こんな生徒じゃ話にならんと、我がアイデンティティの「対象物」を攻撃する。そうすることによって自分のアイデンティティを守っているような気でいるわけだ。

 しかし、そうではないぞ、というのが高野氏の言葉である。つまり、「対象物」を攻撃することによってしか維持できそうもない自己は、「対象物」の崩壊のあおりを受けてこれまたすでに壊れているのではないかというのである。教師として全力で努力することを止めているというわけだ。振り返ればこれが恥ずかしながら忘暮楼今日の姿である。

 さらにいえば、繁栄のシンボルの崩壊を目の当たりにしたアメリカ人の今日の攻撃性の中にも、アメリカ人のアイデンティティの崩壊を見ることができるのかもしれない。

 一方、イッチローや新庄や高橋尚子は、「パ・リーグや阪神での不動の地位」「五輪での金メダリスト」といった対象物を達成した。達成されたことによってそれらの対象物はすでに崩壊していた。そこで彼らはすでに崩壊してしまった対象物を捨て、同時に崩壊した自分のアイデンティティを捨て、MLBやマラソン最速記録追求の場での全力疾走者としてのアイデンティティを確立したというわけだ。あやかりたい、あやかりたい。


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