2001年 7月16日 月曜日

 「空襲」の復習


   もともと記憶力の悪いほうだが、御年59歳、ここへ来ていよいよ覚えじょうが悪くなっている。人の名前、事件の年代、…イッコウに出てこない。しょうがないので、8・15を前にしてこんなものを作ってしまった。赤面。

 
 

 本格的な本土空襲は19■■年夏にアメリカ軍のマリアナ諸島占領によって始まった。日本本土がアメリカ軍の新鋭長距離超重爆撃機B‐29の爆撃圏に入ったからである。アメリカ側は民間無差別攻撃によって日本国民の戦意をくじこうと、大都市に対する焼夷(しようい)弾爆撃を計画した。

 それに対する日本側の防空体制はいたって弱体なものであった。B‐29は19■■年■■月■■日、初めて東京を本格的に爆撃、同月■■日には最初の夜間焼夷弾攻撃が行われ、以後、翌年にかけて敗戦の日まで連日のように空襲が続いた。

 9か月に及ぶ空襲は、延べ■■機により■■回に及ぶもので、■■万9000余発の焼夷弾■■万1000余発の爆弾が投下された。

 3月10日の大空襲は、ハンブルク爆撃(43年7〜8月)で有名なルメー少将の指揮によって準備された。下町地区がまずねらわれたのは、そこが家内工業の中心であり、日本の軍事工業を支えているとの認識がアメリカ軍にあったからである。

 午前0時8分から深川(ふかがわ)地区に始まったこの空襲の特徴は、夜間の超低空からのじゅうたん爆撃という点である。これは火災に弱い日本の都市構造や防空体制の弱点などをついたものであった。

 ■■時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟(はいきよ)と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約■■機のB‐29の攻撃による出火は強風にあおられて大火災となり、40平方キロが焼失、鎮火は8時過ぎであった。

 焼失家屋は約27万戸、罹災(りさい)者数は■■万余人に達した。死者は警視庁調査では■■万3793人、負傷者は同じく4万0918人となっている。資料によって差異が大きいが、「東京空襲を記録する会」は死者数を■■万人としている。 

 

 
 

 本格的な本土空襲は1944年夏にアメリカ軍のマリアナ諸島占領によって始まった。

日本本土がアメリカ軍の新鋭長距離超重爆撃機B‐29の爆撃圏に入ったからである。アメリカ側は民間無差別攻撃によって日本国民の戦意をくじこうと、大都市に対する焼夷(しようい)弾爆撃を計画した。

それに対する日本側の防空体制はいたって弱体なものであった。

B‐29は44年11月24日、初めて東京を本格的に爆撃、

同月29日には最初の夜間焼夷弾攻撃が行われ、以後、翌年にかけて敗戦の日まで連日のように空襲が続いた。

9か月に及ぶ空襲は、延べ4900機により130回に及ぶもので、

38万9000余発の焼夷弾1万1000余発の爆弾が投下された。3月10日の大空襲は、ハンブルク爆撃(43年7〜8月)で有名なルメー少将の指揮によって準備された。

下町地区がまずねらわれたのは、そこが家内工業の中心であり、日本の軍事工業を支えているとの認識がアメリカ軍にあったからである。

午前0時8分から深川(ふかがわ)地区に始まったこの空襲の特徴は、夜間の超低空からのじゅうたん爆撃という点である。

これは火災に弱い日本の都市構造や防空体制の弱点などをついたものであった。

 2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟(はいきよ)と化した。

約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB‐29の攻撃による出火は強風にあおられて大火災となり、40平方キロが焼失、鎮火は8時過ぎであった。

焼失家屋は約27万戸、罹災(りさい)者数は100万余人に達した。

死者は警視庁調査では万3793人、負傷者は同じく4万0918人となっている。

資料によって差異が大きいが、「東京空襲を記録する会」は死者数を

10万人としている。 

 



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