2001年 6月19日 火曜日

 父からの葉書 その1 サエコさんの手紙


   六月は父の命日の月である。冶金分野を得意としていた父は1944年2月中華民国宣化の宣化製鉄所に赴任した。同社に原料課長の職を得たのである。51歳であった。以後、頑健な身体を武器に、無遅刻、無欠勤、無休日を通して同社の鉄鉱生産を軌道に乗せるべく粉骨砕身の奮戦を続けた。しかし、疲労と風邪がきっかけとなったのであろうと思うが、約4ヶ月後当時広がっていた発疹チフス(→国立感染症研究所 感染症情報センター)という疫病に罹り6月4日51年の人生を終えた。その時、私・守は満2歳になったばかり、義兄・旦は16歳であった。

 亡母はこの年父が中国から送ってきた31通の葉書を紐に閉じて大事に保管していた。私は、小学校の頃からその存在を知っていたのだが、父の崩し文字が読めないのと、父親そのものに関心を抱かなかったのとでこの葉書を読もうとしなかった。一昨年母が死んだ後なんとか読みたいと思い始めて、結局達筆の従姉のサエコ姉さんにこれを私の分かる字体に書き直してもらうことにした。サエコ姉さんは「ええっ(国語の教員なのに)崩し字が読めないの?」と驚いていた(カッコのなかは実際は言わなかった)。

 サエコ姉さんは最近「企図震振」とかいう症状で字が書きにくくなっているのに、31通の葉書を全部私に判るように楷書体で書き写して、次のような手紙を添えて送ってくれた。私はこの手紙を読んで「空疎」な私の父子関係を見なおす気持ちになった。一種の「和解」ともいえよう。本人の了解を得ていないけど、ま、許してくれるだろう。これから掲載する「父の葉書」シリーズの解説版ともなる手紙である。

 
 

叔父上さまの葉書読ませて頂きました。やはり読めない所も数カ所ありましたけれど一応うつしとってみました。
字を書くのが不自由になってこんなに時間がかかりましたけれど、これを済まさないと何も手につかない感じでした。

 言葉につくせない程の感銘を受けました。叔父様のお人柄に近々と触れたようで賢い暖かい人間味豊かなお人が、伝染病のためにあっという間に命を奪われたこと、当時の状況を思って口惜しいです。

 守ちゃんにとって面影の遠いお父さんでも、このハガキは宝ですね。私もこの年になっていろいろ察すること大です。叔母さん宛より旦さん宛のほうが多いこと、元気だ元気だと言ってあの厳しい地での今では考えられないような戦時下の仕事。

 手紙の往復が半月もかかるような離れた状況で互いに案じ合う家族、夫婦、親子。あの二月から六月までの片方通信だけで想像がつきます。

 ハガキをうつし乍ら文章の上手なこと、自然を見る目、包容力のある方だったんだなあとつくづく思いました。叔母さんも短い間だったけどいい方と巡り会って幸せだったなあと思います。

 守ちゃんも世間的に見れば不幸せな生まれあわせかも知れないけど、こんな立派なお父さんがあったればこそ、その遺伝子が生きて貴方の活躍の源となっているのだと思います。

 考えること一杯あったけど頭の方が手よりもっと「企図振戦」でストップです。