2001年 5月15日 火曜日

 大事な仮定


   そろそろ考えておかねばならないことがある。奥方と忘暮楼とどちらが先に死ぬのか、という問題である。交通事故などで二人がほぼ同時に死ぬ場合もないではないが、まあ、私が先に死んで奥方が後に残るか、奥方が先に死んで私が後に残るか、二つに一つと考えておいてよかろう。とにかくこのどちらかになる。

 私が奥方より先に死ぬケースは実は想像する値打ちすらない。あとになにが起ころうと、私はすでに死んでいるからだ。問題は、奥方が先に死んで私が生きつづける場合だ。

 私は唯一検討の価値があるこのケースにそなえて日々日常生活力の練成に努めている。奥方が退職した今も自分で弁当を作っているのはこの理由からだ。ごみ出しの要領を知らねば、と自らを励ましているのも同じ理由からだ。奥方が韓国へ留学している数ヶ月ないし数年の間は、彼女にとっては語学のお勉強の期間だが、私にとっては生活の自立のための訓練期間となるわけだ。

 さて、今宵は三原剛というバリトン歌手のコンサートに行った。ドイツのケルンで歌の修行した人らしい。すばらしいコンサートだった。三浦剛という歌手、歌の合間のしゃべり口をみても、今日の選曲をみてもユーモアに満ちた好人物のようである。

 この人が歌った「さびしいカシの木」という歌もなかなかよかった。歌唱の誉め方がわからないので「よかった」だけに止めておくが、やなせたかしの作品という詩がまたおもしろかった。

 この歌をききながら、私は、奥方が私より先に死んだ場合の私の晩年に思いをはせたのだった。

 
 

さびしいカシの木

山の上のいっぽんの
さびしいさびしい
カシの木が
とおくの国にいきたいと
空ゆく雲にたのんだが
雲は流れて
きえてしまった

山の上のいっぽんの
さびしいさびしい
カシの木が
私といっしょにくらしてと
やさしい風にたのんだが
風はどこかへ
きえてしまった

山の上のいっぽんの
さびしいさびしい
カシの木は
今ではとても年をとり
ほほえみながらたっている
さびしいことに
なれてしまった  

 

 うーむ、いい詩だけど、これはちょっと寂しすぎるかなあ。