2001年 5月7日 月曜日

 傷痍軍人


   「<小林よしのり『台湾論』>を越えて」(作品社)の丸川哲史さんの手になる序文に次の文章があった。あの街角で献金を無心していた「傷痍軍人」が朝鮮人・台湾人だったというのだ。忘暮楼は心底びっくりした。

   

 
 

もう一つ、私の子ども時代の忘れがたい経験の話をすると、白装束で街角に座り寄付を訴えていた「傷痍軍人」と呼ばれる人々のことが思い出される。あの「傷痍軍人」はどのような人々であったのか、当時は誰も教えてくれなかったのだが、その人々が日本国籍保有者なら受けられる補償を受けられなかった在日韓国・朝鮮人、あるいは在日台湾人であったことを私が知った頃には、彼らは、すでに街角から消えていた。 

 

 

 日韓会談反対を叫んでデモに参加していたころ、私は、日本の朝鮮に対する植民地支配の歴史についてほとんど何も知らなかった。今それを思うと笑ってしまいたくなるほど悲しい。この「傷痍軍人」の「真相」にも同じような悲しさを感じる。もしそれが真実なら、日本政府の不条理をともに怒らなければならないのに、私にとって彼らは気持ち悪い存在でしかなかった。

 論拠が欲しくて、愛媛県郷友会、愛媛県傷痍軍人会連合会、愛媛県警察史編纂委員会などに問い合わせたが、電話口に出てくれた人はみな、「あの傷痍軍人」の存在すら知らない人ばかりだった。    

 『日本大百科全書』(小学館)の纐纈厚の解説によると、

  • 「傷痍軍人」は戦闘や公務によってケガをした軍人・軍属さすが、
  • 実際には、軍人恩給法によって増加恩給・傷病年金・傷病賜金の受給権有資格者をさす。

 同解説によって年表を作っておく。

 蛇足になるだろうが、敗戦までは植民地出身の軍人軍属と宗主国日本出身の軍人軍属は同じ取り扱いだった(だろう)が、戦後の法律は日本国籍保有者元軍人・軍属だけに適用された。

 傷痍軍人は、最初は「廃兵」と称された。

時期ことがら
1906年(明治39)4月 日露戦争によって3万6000人余の傷病者を出したことから
  • 廃兵院法が制定された。
  • 翌1907年9月に傷病者の国家による終生扶養を目的として廃兵院を東京・渋谷に設置。
  • 廃兵院には、自己の財産・労働による自活能力のない傷痍軍人に限り収容を許可された。
  • 傷痍軍人の保護施設は、このほかにも満州事変の際の啓成社や衛戍(えいじゅ)病院内でも一部代用され、職業訓練等が実施された。
その後傷痍軍人と名称変更
【22年後】
1938(昭和13)年4月
日中戦争の全面戦争化に伴い、多数の傷病軍人が出た結果、廃兵院は厚生省管轄下に傷兵保護院と改称して拡充。さらに翌年には軍事保護院とふたたび改称された。
  • 【事業1】医療の便宜を図る
  • 【事業2】職業訓練、就職斡旋(あっせん)によって強力に社会復帰を支援する
  • 【特典1】鉄道運賃免除
  • 【特典2】所得税減税
  • 【特典3】煙草(たばこ)等優先販売権など
【7年後】
第二次世界大戦後
  • 軍事保護院は廃止
  • 傷痍軍人は一般の身体障害者と同等扱いとなった。
  • 以後、一般身体障害者対策の枠内で援護されることになった。
【7年後】
1952年(昭和27)4月
戦傷病者戦没者遺族等援護法が制定され、
  1. 障害一時金、
  2. 更生医療、
  3. 補装具支給、
  4. 国立保養所への収容など
が全額国庫負担で実施されることになり、傷痍軍人対策がふたたび登場することになった。
【翌年】
1953(昭和28)年8月
恩給法が改正された結果、
  • 【特典】国鉄無賃乗車の指定
をはじめ各種の特典が付与された。
 (参考)(55年2月)財団法人日本傷痍軍人会が設立された(会長笹川(ささがわ)良一、会員12万人、機関誌『日傷月刊』)。当会は各都道府県傷痍軍人会を地方組織として設置している。事項・戦傷病者特別援護法制定に重要な役割を果した。
【10年後】
1963(昭和38)年に
これら援護関係諸法規が、戦傷病者特別援護法に一本化された。