忘暮楼日記  
  2001年 3月24日 土曜日

 「新しい歴史教科書をつくる会」
  の歴史教科書


  「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が国内外で論議を呼んでいる。私もこの問題で自分の意見を表明しなければならないと思ってきたのだが、肝心の「新しい歴史教科書をつくる会」の西尾幹治氏執筆の教科書がどのようなものであるかを知りうる立場にない。

 週刊誌などでは、流出したとされる教科書白本の内容が暴露されているようだが、それを根拠に議論して良いものか、なにしろ、眉唾話の多い今日この頃なのでアブナイ感じもする。

 そこで、教科書そのものではないが、同会が「新しい教科書」を見たい人に勧めている同会編『新しい教科書誕生!!』(PHP研究所発行 2000年9月11日)に目をとおしてみた。この本のなかで歴史教科書執筆者西尾幹治氏が執筆の意図を直接吐露してくれている。これを紹介しコメントすることにしよう。

 左が西尾幹治氏の文章、右は忘暮楼のコメントです。

西尾幹治氏のことば忘暮楼のコメント
「大東亜戦争については、四ページにまとめられていますが、最初の二ページは東南アジアにおける緒戦の大勝利を描いています。

 わずか百日ほどでアジアから白人を追い出したので、『東南アジアやインドの人々、さらにはアフリカの人々まで独立への夢と勇気を育んだ』と記述しています。」(26p)

 「私よりも上の年代で戦争を知っていたと称する保守派の人たちが、日本が解放戦争を唱えて戦争に参加したなんどことは嘘だとよくいいます。

 …これは違いますよ。シンガポール陥落というのは…昭和17年2月ですよ。ですからまだ2ヶ月もたってない。そのときちゃんとはっきり日本はアジア解放宣言、そしてアジア各国を独立させるという宣言を内外に向けて言っている。ここにその明白な証拠がございます(拍手)。

 これはしかもごらんのように、かの『朝日新聞』でございます。(124〜125p)」

 アジアの民族解放運動のなかで重要な役割を果たした中国共産党が創立されたのは1921年であり、中国大陸に投入された100万の皇軍を相手に粘り強く展開された抗日運動は1937年にはじめられたのであり、西尾氏のいう「大東亜戦争」に励まされて組織されたものではない。中国の戦いを「大東亜戦争」によって育まれ勇気で説明しようとするような歴史教科書は「歴史の歪曲」としか言いようがない。

  また、ベトナム人がベトナムの独立を目指してベトナム共産党を創立したのは1930年であり、そのベトナム共産党が民族統一戦線ベトミン(越南独立同盟)を結成したのは1941年5月である。ともに「大東亜戦争」開戦以前である。しかもベトミンは日本皇軍とフランス軍の二つの軍隊を敵にまわして戦い、1945年8月の総蜂起によってベトナムの独立と解放を勝ちとったのであるから、これも「大東亜戦争」に励まされての偉業というのは「歴史の歪曲」である。

 また、アジアからの留学生の多くが、いまでも原爆投下は「正しかった」あるいは「仕方がなかった」を考えていることの意味を考えなければならない。ある留学生はその気持ちを「原爆で多くの日本人が死んだことを聞きましたが、私たちの国では日本兵により、もっと多くの人々が殺されました。日本人が、このようなことをしなければ原爆は落とされなくてすんだと思います」と述べている。

 また、日本軍による虐殺からかろうじて生き残ったマレーシアの人々が広島の原爆資料館を訪問し、異口同音に、「原爆で女性や子どもが犠牲になったのはかわいそうだが、日本がアジアを侵略しなかったら原爆を落とされなかったはずだ、原爆がなければ自分たちも含めてもっと多くのアジアの人々が殺されていただろう」と語ったという。

 さらにフィリピンのある新聞記者は、「被爆者の苦しみを知った今でも、フィリピンでの日本軍の残虐行為は容易に許されるものではないと思う」と語っている。

 もし本当に西尾氏が教科書に書いたように『東南アジアやインドの人々、さらにはアフリカの人々まで独立への夢と勇気を育んだ』のであるなら、アジアの人々のこのような反応は生まれるはずもない。

 また、アジアの独立を言いながら、朝鮮と台湾と南洋の植民地や事実上の植民地については、無条件降伏のときまで日本の支配下に置きつづけたことも周知の事実である。

後半二ページはミッドウェイから敗北への悲惨が描かれています。……

そしてその章の締めくくりに

『戦争は悲劇である。しかし、戦争に善悪はつけがたい。どちらかが正義でそちらかが不正であるという話ではない。国と国とが国益のぶつかりあいの果てに、政治では決着がつかず、最終手段として行うのが戦争である。アメリカ軍と戦わずして敗北することを、当時の日本人は選ばなかったのである』

とあの時代の日本人の決意と自己認識をまとめています。この部分はわれわれの志を強く訴えたものであり、『作る会』の原点といえるかもしれません。」(26〜27P)

 今日においても「国と国とが国益のぶつかりあいの果てに、政治では決着がつか」ないことはよくあります。北海道の二島および千島列島をめぐる日露の対立、竹島を巡る日韓の対立、尖閣初等を巡る日中の対立、これらはみな容易に政治で決着がつくような問題ではありません。

 西尾氏の「国と国とが国益のぶつかりあいの果てに、政治では決着がつかず、最終手段として行うのが戦争である」という観点は、この教科書を学ぶ子供たちに、日本は今後も戦争で決着をつけなければならない局面を迎えることがありうると確信させるもので、憲法の精神、なかんずく憲法第九条の規定を否定するものとなっている。

 このような記述が子供たちの憲法理解の妨げとなることはあきらかであろう。

 また、西尾氏は、1941年の日米開戦について、「アメリカ軍と戦わずして敗北することを、当時の日本人は選ばなかったのである」と述べているが、マレー半島占領と真珠湾攻撃は天皇と軍部中枢が選んだ道である。当時の帝国臣民には国の進路を選ぶ手段は与えられていなかったのであってこの記述は虚偽と言うべきである。。

 私はこのような認識に対して、2・26事件後の帝国議会における「粛軍演説」等で知られる斉藤隆夫の分析を対置したい。斉藤隆夫は、周知のとおり徹底した侵略戦争肯定論者である。

 1943(昭和18)年に、斉藤隆夫は大略、次のように述べている。

 政府は、不平不満を抱く者は非国民である、日本の戦争は東亜十億の民族を解放して東亜共栄圏を確立せんが為である、と宣伝しているが、一歩退いて静かに日本今日の実情を洞察すると、我々現代人が苦しめば我々の子孫は繁栄すると考えていたら大変なるまちがいである。

 戦争は勝てない。結局に於いて日本は負ける。大敗を招く。米英は無条件降伏を強要する。

 而(しこう)して是はいったい何者の責任であるか。一切挙げて戦争挑発者たる軍部と軍部に迎合する時局便乗者の責任である。

 彼らは戦争に熱中し国民を扇動し欺瞞しつつ最後の勝利を夢見ている。しかし、今より何年か後には余の観測は必ず的中する。(『支那事変より大東亜戦争に対する直筆』より)

 斉藤隆夫はこう述べて、而して2年後にこの予言は100%的中したのである。戦時中においてすらこれだけの客観的な認識が可能であったのに、西尾氏は今に至ってまだ戦時中の軍部の見解を固持しようとするのは時代錯誤としか言いようがない。