2001年 2月25日 日曜日

 学習ノート
生徒の集団虐待と
学校の責任 9(つづき)
何を予見すべきなのか 。   


  采女 博文さんの 『いじめと人権--いじめ裁判例を読む』 【1995年度鹿児島大学公開講座 リカレント法律学−人権− 】(法学科主催) の学習ノートの続きです。全文はここの『イジメ根絶のページ』の上記論文を見てください。

釆女博文先生は前回

民法416条でいう予見の主体は加害者「本人」ではなくて「通常人」であるのだから、自殺行為の予見の主体も個々の教諭ではないはずだ

として、イジメの実態を直視しようとしない教員すらいる現状のなかで、裁判所は個々の教員の予見可能性に焦点を合わせすぎていると批判されました。

 つづいて、

「何が予見されるべきか」

という問題に移ります。忘暮楼はここが大切なところだと思いました。

 一般に、ある人の自殺のよって起こったところの原因というものは、高橋祥友さんが『自殺の心理学』(講談社現代新書)のなかで自殺行為の要因を

  1. 環境(家族の入院、家庭内の不和、親の離婚、両親の間でのしつけに関する意見の不一致、自尊心の喪失、経済的喪失、地位の喪失、など)
  2. 性格傾向(未熟・依存的、衝動的、完全主義、孤立、抑うつ的、反社会的など)
  3. 他者の死から受ける影響(近親者の死亡、群発自殺など)
  4. 生物学的因子(年齢が高くなると共に自殺率も高かまる、性別、病気や外傷など)
  5. 精神疾患(そううつ病、精神分裂症、人格障害、アルコール・薬物依存など)

    ※(  )のなかは忘暮楼が同書にある事例から引用・補足しました。

などと列挙しているように、その解明には複雑な分析を要し、専門的な能力が要求されており、「イジメ→自殺」とセンセーショナルに短絡することはできません。したがって、教員がイジメ事件から生徒の自殺そのものを予見することはきわめて難しいといわざるを得ません。

 では、教員や学校は「自殺は予見できなかった」として損害賠償を拒否することができることになるのでしょうか。今回は、その問題です。


 いじめによる自殺の場合には被害生徒の「意思」が介在しする。同じようなイジメ状況下にあっても、自殺する生徒もいれば、しない生徒もいる。そこで、「予見可能性」がとくに問題になってくる。

相当因果関係を肯定して、学校の責任を一部認めた判決Dは、自殺することまでの予見可能性は必要ないとしている。

1 「自殺の兆しがあったというまでの事実はおよそ認められない以上、
2 学校側において二郎が自殺することを予見すべきであったということはできないものと考える。
3 しかし、そもそも学校側の安全保持義務違反の有無を判断するに際しては、
4 悪質かつ重大ないじめはそれ自体で必然的に被害生徒の心身に重大な被害をもたらし続けるものであるから、
5 本件いじめが二郎の心身に重大な危害を及ぼすような悪質重大ないじめであることの認識が可能であれば足り、
6 必ずしも二郎が自殺することまでの予見可能性があったことを要しないものと解するのが相当である」。

 この判決にあるように、予見の対象は、「被害生徒の心身に重大な障害をもたらす悪質重大ないじめであること」であり、自殺することではないと考えるべきである。

 いじめによる自殺の裁判例を直接論じる論文をみましても、その多くは自殺についての予見可能性を必要とはしていないい。

1 市川須美子「判批」ジュリスト980号(1991年)
2 織田博子「判批」『教育判例百選(第三版)』(1992年)
3 潮見一雄「学校における『いじめ』と学校側の責任−とくに、いじめによる自殺を中心として」『現代社会と民法学の動向』(1992年)129頁以下、
4 伊藤進「学校における『いじめ』被害と不法行為責任論−最近の『いじめ』判決を素材として」『現代社会と民法学の動向』(1992年)265頁以下など