2001年 2月24日 土曜日

 学習ノート
生徒の集団虐待と学校の責任 12
   加害生徒をどうとらえるか


  采女 博文さんの 『いじめと人権--いじめ裁判例を読む』 【1995年度鹿児島大学公開講座 リカレント法律学−人権− 】(法学科主催) の学習ノートの続きです。全文はここの『イジメ根絶のページ』の上記論文を見てください。

釆女博文さんはここで、

加害生徒もまた現在の学校教育から疎外された存在である

と主張されます。

では、学習ノート始まり。


 報道されているいじめのなかには極めて陰惨なものがある。

  1. 子どものしあわせ編集部編『いじめ・自殺・遺書』(草土文化、一九九五年)、
  2. 朝日新聞社社会部『なぜボクはいじめられるの』(教育資料出版会、一九九五年)、
  3. 村上義雄『ルポいじめ社会』(朝日文庫、一九九五年)
  4. 土屋守『500人のいじめられ日記』(青弓社、一九九四年)、
  5. 法務省人権擁護局内人権実務研究会『いじめQ&A−子どもの人権を守ろう』(ぎょうせい、一九九四年)
など参照
したがって、加害生徒に対する厳罰主義ともいうべき考え方が出てきてもやむを得ない面があるが、この点はもう少し掘り下げて考える必要がある。

 たとえば判決【5】は、  
1 教育的手段を講じた上でなお依然として何らの効果もみられないときは、
2 もはや学校内指導の限界を越えるから、
3 警察や家庭裁判所その他の司法機関に加害生徒の措置を委ねることも必要である

と述べている。
 確かに、

1 問題行動が繰り返されることによって被害生徒の心身に重大な障害が生じることが予想されるし、
2 加害生徒にとってもまたその非行性がより一層深くなり、その将来にとって好ましくない結果をまねくことになるから、
これも必要な措置だと思う。

 しかし問題が司法の手に委ねられた場合には、加害生徒の処遇という別の問題がでてくる。

(第一東京弁護士会少年法委員会『子ども・家庭・・・そして非行』(ぎょうせい、一九九四年)など参照)。

 最近テレビドラマ化されて話題になった『家栽の人』から少年事件の処分についての主人公のことばを引用しておく。

1 「凶悪ならば重く、罪が浅ければ軽く、というのが世間の常識ですからね。裁判官もそれを意識せざるを得ない。

2 それを、忘れたらどうです?
3 厳しい罰を与えれば、問題のある少年が自分達の前から消えると思うこと自体、完全な誤解です。
4 どんなに長い処分を与えても、少年は社会に戻ってくるんです。誰かの隣に住むんですよ。
5 その時・・・・・・その少年が、笑って暮らしている可能性を探すのが、裁判官の仕事じゃないんですか。
(毛利甚八原作『家栽の人(3)』(小学館一九九〇年)一一〇頁)」。

 このような考え方に立つと、問題はやはり学校教育に投げ返されてくる。日本の教育のあり方そのものを見直す必要があるのである。

 加害生徒もまた現在の学校教育から疎外された存在である

という教育社会学の研究者の指摘が重要である。

 
 

1 「いじめっ子のいじめ加害は、

2 自分をふるい落とすものへの強要された抵抗と反抗にほかならない。

3 また、教師の目を引くためであり、

4 そうしたいじめをはたらいたとき、

5 自分を取り囲みはやしたててくれる「観衆」や止めに入ってくれる「仲裁者」への

6 自己存在のアピールであり、

7 彼らと同じ存在の子どもであることを自ら確認しようとする

8 自己同定の作業と映る。

9 そういう意味では、

10 いじめっ子よりさらに問題で悪質なのは、

11 彼を取り巻く観衆や「一見」仲裁者なのかもしれない

(森田洋司・清永賢二『新訂版 いじめ−教室の病理−』(金子書房、一九九四年)一一五頁以下)
 

 

この点は本書の他、前島康男『いじめ−その本質と克服の道すじ−』(創風社、一九九五年)など多くの文献で指摘されている。