2001年 2月14日 水曜日

 学習ノート
生徒の集団虐待と学校の責任 9
誰が自殺を予見するのか


  采女 博文さんの 『いじめと人権--いじめ裁判例を読む』 【1995年度鹿児島大学公開講座 リカレント法律学−人権− 】(法学科主催) の学習ノートの続きです。全文はここの『イジメ根絶のページ』の上記論文を見てください。

いじめによる自殺と学校の責任についてのつづきです。学校が自殺を予見できる状況でない場合は学校は責任を問われないとする判例の問題点が分析されています。


 

 
(1)これらの予見可能性を否定している裁判例を読んでまず気になる点は、予見の主体の問題つまり誰の予見可能性を問題にするのかという問題である。
(2)一般的に、予見の主体は加害者「本人」ではなくて「通常人」だとされている。現行民法四一六条の起草趣旨を説明した穂積陳重の表現を借りますと「通常の人が或る取引を致しまする或は売る位置にありましたならば十人が八九人、即ち注意深い人多数の者」(『法典調査会民法議事速記録三』商事法務研究会、66頁)であると説明されている。
(3)そうすると、予見の主体は事件の起きた学校の個々の教諭ではないはずであるが、裁判例では個々の教諭に焦点が合わされているのではないかという疑念がある。
(4)深刻ないじめに機敏に対応できなかった教諭や違法な懲戒を行う教諭「本人」の予見可能性を問題にしたのでは、なにごとも予見できないという結論になってしまう。
(5)この点に関する疑問を裁判所はまず払拭すべきである。