2001年 1月12日 金曜日

 韓国語を勉強した天皇


   忘暮楼が大正天皇ファンになってしまった理由は、人民にいかめしく君臨した父親・明治天皇への反発かと思われるほどの自由奔放、万事簡略、活発多弁な生き方だけではない。実は、『大正天皇』(原武史著 朝日選書)によると、元気者の嘉仁(大正天皇)は韓国語に並々ならぬ関心を寄せていたらしい。韓国語を勉強した天皇はこの人だけではないだろうか。となると、ほっとけない。

 韓国語に関心をもったきっかけは、伊藤博文の権謀術数で押しつけられた韓国旅行である。この旅行で、27歳の嘉仁が李王の長男である10歳のかわいい李垠(イウン)に親密感を抱いたのである。この坊やと話したいばかりに韓国語を勉強し始める。

 嘉仁がこのときソウルで李垠(イウン)に会ったとき、さっそく「通訳を務めた秘書官に対して、韓国語につき質問してい」たそうだ。

 翌年李垠(イウン)が東京に留学してくると、嘉仁(28)は翻訳官に『たびたび韓太子に会うから少し朝鮮語を稽古してみたいが、何か本はあるまいか。あれば侍従まで届けてもらいたい』と頼んでいる。

 また、李垠(イウン)に会ったときは、あとで翻訳官に『今日の話の文句を朝鮮語の諺文(ハングル文字)で書いて、それに発音と訳文を付けて差し出すように』と命じたという。忘暮楼の経験からいってもこれは相当にはまっているぞ。

 話は十数年後に飛ぶが、牧野伸顕内務大臣の刻銘な日記には次の事実が記載されている。

 1921年、大正天皇(42歳)の病状は悪化していた。意識もはっきりないことが少なくなかった。8月に、李王世子・李垠(イウン 23、4歳)が、前年結婚した方子の両親・梨下宮夫妻とともに天皇を見舞った。

 天皇は、李垠(イウン)を彼の幼少のころから知っていたし、「ご自分朝鮮語を話すとの兼ねての御抱負もあり」、かつ、18歳も年下だから遠慮も要らないということでその来訪をずいぶん待ち望んでいたそうだ。

 しかし、李垠(イウン)が8月19日に訪ねてきたときは「御思出しなきか、言葉の出ざりしか」、大正天皇は彼に一言も言葉をかけることがなかった。

 この記述には、四日後の日記に補足がある。

「8月19日の記事に李王・世子拝謁の時に御言葉なかりし事に認(したた)めたるが、その後、海江田侍従の話に、御上(おかみ)より何か解しがたき御言葉を御発しなりたるよし。多分朝鮮語のつもりにて御話なりたるものならんとの推測なり。

 嘉仁の韓国語歴は十数年に及んだわけである。 

 嘉仁の皇太子時代および天皇時代は、日露戦争、韓国の植民地化、3・1独立運動と最も忌まわしい日韓関係の出発から完成の時代であった。この歴史の流れの意味は嘉仁もよくわかっていたはずだ。だから、嘉仁の弁護をすることなどはできそうもない。しかし、そんな中で、きっと欲得抜きで、ただただ李垠(イウン)との会話を楽しみにして韓国語を勉強した嘉仁を思うと、おろかな忘暮楼はつい涙ぐんでしまうのだ。

 この天皇がもっと長生きしていたら、日本の姿も少しは変わっていたかもしれない。 

色の「年齢」は皇太子時代、は韓国関係を表している。

年齢 期間・日付 旅行先、できごと
1900
20歳
5・10 嘉仁皇太子(後の大正天皇)、九条節子と結婚。
1900
20歳
5・23〜6・2 三重、奈良、京都
1900
21歳
10・14〜12・3 九州旅行
1901
21歳
4・29 迪宮(みちのみや)裕仁誕生。後の昭和天皇である。
1902
22歳
5・20〜6・8 信越北関東旅行
1902
22歳
6・25 惇宮雍仁誕生。後の秩父宮。年子である。夜のお仕事もお盛んだったに違いない。
1903
24歳
10・6〜10・30 和歌山、瀬戸内旅行
1904
24歳
2・9 仁川沖で日露両国海軍衝突、日露戦争開戦。
1905
25歳
1・3 光宮宣仁誕生。後の高松宮。
1905
26歳
9・5 日露ポーツマス講和条約調印。
1907
26歳
6・29 韓国皇帝密使、ハーグ平和会議への参加を申請し拒否される。
1907
27歳
5・10〜6・9 山陰旅行
1908
28歳
10・10〜11・14韓国統監伊藤博文の要請で韓国旅行。このとき嘉仁は李王世子・李垠(イウン 10歳)に好感を抱く。
1908
28歳
12李王・世子李垠(イウン)、東京に留学
1908
28歳
4・4〜4・19 山口、徳島
1908
29歳
9・8から10・10 東北
1909
30歳
1・7〜2・8 韓国皇帝純宗、統監伊藤博文とともに地方巡業。
1909
30歳
4・10 霊南坂密議。桂太郎首相、小村寿太郎外相、伊藤博文朝鮮統監、韓国併合の方針を密議。
1909
30歳
6・15 統監伊藤博文、日本の枢密院議長に転任。
1909
30歳
7・6 日本の閣議、韓国併合の方針を決定。
1909
30歳
9・15〜10・16 岐阜、北陸
1909
30歳
10・26 元朝鮮統監、伊藤博文ロシア、ココツェフ蔵相で迎えのためハルピン駅に到着直後、韓国軍人安重根により射殺された。
1910
31歳
8・22 日韓併合条約調印
1911
31歳
8・18〜9・14 北海道
1912
32歳
3・27〜4・4 山梨
1912
32歳
7・30 明治天皇59歳で死去
1914
34歳
4・11 昭憲皇太后64歳で死去
1915
36歳
11・10 即位大礼,全国旅行増える
1918
39歳
12・5 李王世子・李垠(イウン)と梨本宮方子女王との結婚に勅許。
1918
39歳
10・31 天長節観閲式を欠席
1919
39歳
1・22高宗、ソウル・徳壽宮で死去。
1919
39歳
3・1独立万歳示威運動始まる。全国に広がる。
1919
39歳
7・8ソウル、南山に朝鮮神社を建立。
1919
40歳
9・10新任の朝鮮総督、斉藤実海軍大将、「施政方針の諭告」(文化政策)を発表。
1919
40歳
11・9〜11・21兵庫 特別大演習に皇太子とともに
1920
40歳
3・30第1回病状発表。以後死去までに7回の病状発表あり
1920
40歳
4・28李垠(イウン)、東京で梨本宮方子と結婚。
1921
41歳
8・19李王世子、天皇を見舞う。
1921
42歳
11・25皇太子,摂政に就任
1927
47歳
12・25葉山の別荘で死去