2001年 1月11日 木曜日

 旅行の天皇! 大正天皇


   いつも天皇批判をしている忘暮楼が本当は天皇好きだということ(亡母ゆずりである)がバレてしまうが、『大正天皇』(原武史著 朝日選書)を読んですっかりファンになってしまった。

 この天皇については、本書も指摘しているとおり、普通の日本人は「遠めがね事件」しかしらない。忘暮楼もこれしか知らない。そして、昔の日本人はすべてこの事件を知っていた。ところがこれがいつのことだったかというと塗炭にあやふやになる。大正9年40歳のときだという説もあれば、大正12年44歳の時のことだという説もあるが、公式の記録がなく軍配の上げようがない。しかも、詔書をくるくると巻いて「遠めがね」を作ったのは、気が触れていてではないらしい。著者は、

開院式に臨御された陛下が、詔書を朗読されたあと、それを丸めて、紫の袱紗をおいた三宝の上にお置きになったのですがね。どうも陛下は病気が進まれてからは指先が不器用になっておられたし、うまく詔書がまけなった。……それをそのままにして打っちゃっておけばよかったのですがね」

 陛下は、うまく巻けたか、どうかと、もう一度それを手にとられた。やはり心配だったのだ。そして、ちょっとすかしてご覧になり、すぐに元の位置に戻された。
 この何気ない一瞬の仕種が、下段の議員席から見上げると、まるで遠眼鏡で陛下が覗かれたように目に映ったのである。

というはなしを紹介している。どうも。このあたりが実際だったらしい。

 実際、我々の持つイメージ(根拠はこの「遠めがね」)とは違って、嘉仁皇太子は相当行動的でかつ自由闊達な人物であったらしい。むすこの昭和天皇の「あっそ」バージョンとは一味違っている。それは次の年表で伺えると思う。結婚以後の旅行をまとめた。  

色の「年齢」は皇太子時代を表している。

年齢 期間・日付 旅行先、できごと
20歳 5・10 嘉仁皇太子(後の大正天皇)、九条節子と結婚。幼時から病弱であったが、結婚後一気に健康回復。
20歳 5・23〜6・2 三重、奈良、京都(京都帝大付属病院ではたまたま外科病棟にいた14歳と22歳の患者に近寄って症状を尋ねた。「患者は絶えず感涙に咽びた」)
21歳 10・14〜12・3 下関、小倉、博多、久留米、熊本、佐世保、長崎、兵庫舞子など。50日間のハードスケジュールだった。東京・新橋を大垣行きの普通列車で出発。地理・歴史学習のための「微行」という趣旨であった。

 「思ったことをすぐに行動に移したり口にしたがる」、万事に開放的な性格である。福岡香椎宮境内での松茸狩りでは「あまりにとれるので『殊更に植へしにはあらずや』と述べてヤラセを見」ぬいた。

 嘉仁はこの旅行を「西順日記」と題する日記に記録している。しっかりした文体。舞子で体調を崩し、岡山、香川、愛媛は中止。

21歳 4・29 迪宮(みちのみや)裕仁誕生。後の昭和天皇である。
22歳 5・20〜6・8 高崎、富岡(三井製糸)、松代(妻女山登山)、長野、直江津、新潟、桐生、水戸など、信越北関東。

高崎では人力車に乗ると自分で「車夫に命じて意のまま進ませた」ので、周囲は大狼狽。

ついに『信濃毎日』新聞は、県民に「願わくば、殿下ご滞在あらせらるるなかはもちろん、お道筋の人々も、あらかじめ、なん時いずこよりおなり遊ばすやもはかりがたしとこころえ、謹慎もって狼狽不敬の失態に陥らざるよう注意ありたきもの」と呼びかけた。

 新潟では皇太子が「白山公園をたった1人でいるところを市民に目撃されている」。
 皇太子は「平常の有様をお目撃なりたきご趣意」を実現しながらの旅行であった。

22歳 6・25 惇宮雍仁誕生。後の秩父宮。年子である。夜のお仕事もお盛んだったに違いない。
24歳 10・6〜10・30 和歌山(紀淡海峡周遊)、高松、琴平で金刀比羅宮参拝、松山、広島糸崎、岡山閑谷、津山など和歌山瀬戸内。

松山の城山では知事や旅団長に「かの山は何というぞ」「かの地はいかなる歴史を有するぞ」「余が通行せしはいずれぞ」「この山の眺望はすこぶる余が意にかなえり。今回の行啓、余は未だこれほどの景色に接せず」、道後温泉では「この菓子はこの地の名物なりや」、と相変わらず率直多弁である。

25歳 1・3 光宮宣仁誕生。後の高松宮。
27歳 5・10〜6・9 山陰に、天皇の名代として公式地方旅行。各地とも、鉄道開業。電気の点灯、電話、舗装道路などインフラストラクチャ整備の絶好の機会となった。京都、大阪、福知山、天の橋立、舞鶴から軍艦鹿島で境港、米子、鳥取、おり返して安来、途中、学校で3泊、濱田から軍艦鹿島で隠岐へ、舞鶴に上陸、帰路につく。相変わらず多弁、質問多発。
この旅行から、歓迎行事の出し物にに大掛かりな郷土芸能を見せることが恒例となる。
28歳 10・10〜11・14韓国統監伊藤博文の要請で韓国旅行。伊藤は、高宗に代わって即位した純宗の子、皇太子李垠(イウン)の日本留学を企図し、それと引き換えに嘉仁皇太子の訪問を発案した。このとき嘉仁は李垠(イウン)に好感を抱く。帰路、佐世保に上陸、長崎、鹿児島、宮崎、大分。大分から高知の須崎に上陸して高知へ、再び須崎から横浜へ。35日ぶりの帰京。
28歳 4・4〜4・19 山口、徳島
29歳 9・8から10・10 東北
30歳 9・15〜10・16 岐阜、北陸
31歳 旅行相次ぐ
31歳 8・18〜9・14 北海道
32歳 3・27〜4・4 山梨
32歳 7・30 明治天皇59歳で死去
34歳 4・11 昭憲皇太后64歳で死去
36歳 11・10 即位大礼,全国旅行増える
39歳 10・31 天長節観閲式を欠席
40歳11・9〜11・21兵庫 特別大演習に皇太子とともに
40歳3・30第1回病状発表。以後死去までに7回の病状発表あり
42歳11・25皇太子,摂政に就任
47歳12・25葉山の別荘で死去