任堂安藤正楽先生年譜



1866年慶応2年 11月15日、安藤正楽誕生。幼名、岸蔵。愛媛県宇摩郡土居町大字中村1857番地。父、清太。母、クニ。1886年(明治19年)正楽と改名。 慶応2年、五稜郭完成


慶応3年、ええじゃないか起こる 慶応3年10月14日、大政奉還の上表 慶応3年12月9日、王政復古の大号令 慶応4年5月、北越戦争。


1868年(明治元年)神仏分離令 1869年(明治2年)戊辰戦争の終了、版籍奉還 1871年(明治4年)廃藩置県 1872年(明治5年)太陽暦の採用 1873年(明治6年)徴兵令、地租改正、明治六年政変(西郷隆盛・板垣退助が下野) 1874年(明治7年)民撰議員設立建白書、台湾出兵 1875年(明治8年)樺太・千島交換条約 1876年(明治9年)日朝修好条規(江華条約) 1877年(明治10年) 西南戦争 1878年(明治11年) 地方三新法 1879年(明治12年) 沖縄県を設置した。 1880年(明治13年) 国会期成同盟結成 1881年(明治14年) 明治14年の政変、国会開設の詔勅出される。 1882年(明治15年) 福島事件 1884年(明治17年) 秩父事件 1885年(明治18年) 内閣制度発足、天津条約
1884年明治17 19歳のとき結婚
1885年明治18 徴兵検査を受ける。偏平足のため不合格になった、と。
1989年明治22 上京して学問に専念すべく1988年(明治19)離婚。1989年10月上京して東京明治法律学校に入学。 1889年(明治22年) 大日本帝国憲法発布
1990年明治23
10月、教育勅語発布・御真影とともに各学校に下賜
1992年明治25 七月、卒業。教授のハテルノストローと岩谷孫蔵には格別の感化を受けた。ハテルノストローは憲法制定に当たって招聘されて来日。 〇1890年(明治23年) 第1回衆議院総選挙、第1回帝国議会召集 〇久米邦武教授「神道は祭天の古俗」の論文で東大を追われる 1891年(明治24年) 大津事件

岩谷孫蔵、京都大学教授に赴任。安藤も一緒に京都に行きローマ法の翻訳を手伝う。京都遊学は二年余。


1894年〜1895年 東学農民革命

1894年(明治27年) 日清戦争 (- 1895年)、日清戦争に関しては国内にほとんど対立がなかった。内村鑑三もこの戦争を義戦として外国人に理解を訴えた。


日英通商航海条約

安藤、フランスの勉強をするため上京するも、弟の岩吉(山上次郎の父)入隊のため帰郷。 1895年(明治28年) 下関条約

弟岩吉満期除隊。安藤再び上京。主として歴史を勉強。
1899年明治32 郡会議員になる
1900年明治33 『露西亜南下史』脱稿。ロシアの南下を非難。
1901年明治34 ノートに「徴兵検査場に立会しける時詠みける歌」8首(徴兵制に反対) 
○身を挺し 国に尽くせと 王は宣るよ 嗚呼人を殺しに われは来つるか 
○肉は飛び 血迸(ほとばし)りてん そのときに 今日を恨みの 日とは知りてん  
○人の世に 男の子となりて 生まれきし 益荒雄よ国は 汝が血を徴す 
○天使ここにあらず 悪魔来たりて 血を徴すよ 由来国家の 価幾何 
○ 糾したる 武夫五十万 ああ国家 国家 国家は魔城よ  
1901年(明治34年) 足尾銅山鉱毒事件
1902年明治35
1902年(明治35)日英同盟に調印。
1903年明治36 愛媛県会議会議員となり1期つとめる。県議会での第一声で「新平民問題」を取り上げる。 
1903年明治36 3月11日次の詩を作る。「絶対は神の宣示よ./相対は人の法規よ/宣示!法規!/人の子去っていずれに服せん/火と生まれて何者か非なる/しかれども王は児戯の刑場へ連行せんとす/宣示!法規!/人の子往きて何れを採らむ?/人生まれて何事か悪なる/王は罰するに殺人を以てす 窃盗を以てす 而うして姦淫を以てす/さらば問はむ/王、人を殺す幾億万 彊土をぬすむ 幾万方哩/しかして尚億兆を辱かしむ・・・ 内村鑑三「万朝報(よろずちょうほう)」に日清戦争を義戦と論じことの反省を含めて『戦争廃止論』を書く。<明治36年6月30日: 余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である、戦争は人を殺すことである、さうして人を殺すことは大罪悪である、そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得よう筈はない。  
      *  *  *  
世には戦争の利益を説く者がある、然り、余も一時はかかる愚を唱えた者である、然しながら今に至ってその愚の極なりしを表白する、戦争の利益はその害毒を贖うに足りない、戦争の利益は強盗の利益である、これは盗みし者の一時の利益であって、(もしこれをしも利益と称するを得ば)、彼と盗まれし者との永久の不利益である、盗みし者の道徳はこれがために堕落し、その結果として彼はついに彼が剣を抜いて盗み得しものよりも数層倍のものをもって彼の罪悪を償わざるを得ざるに至る、もし世に大愚の極と称すべきものがあれば、それは剣をもって国運の進歩を計らんとすることである。                                                   *  * *
 近くはその実例を二十七八年の日清戦争において見ることが出来る、二億の富と一万の生命を消費して日本国がこの戦争より得しものは何であるか、僅少の名誉と伊藤博文伯が侯となりて彼の妻妾の数を増したることのほかに日本国はこの戦争より何の利益を得たか、その目的たりし朝鮮の独立はこれがために強められずしてかえって弱められ、支邦分割の端緒は開かれ、日本国民の分担は非常に増加され、その道徳は非常に堕落し、東洋全体を危殆の地位まで持ちきたったではないか、この大害毒大損耗を目前に視ながらなおも開戦論を主張するがごときは正気の沙汰とはとても思われない。                    *  *  *
 もちろんサーベルが政権を握る今日の日本において余の戦争廃止論がただちに行なわれようとは余といえども望まない、然しながら戦争廃止論は今や文明国の識者の輿論となりつつある、そうして戦争廃止論の声の揚らない国は未開国である、然り、野蛮国である、余は不肖なりといえども、今の時にあたってこの声を揚げて一人なりとも多くの賛成者をこの大慈善主義のために得たく思う、世の正義と人道と国家とを愛する者よ、来たって大胆にこの主義に賛成せよ。  
同じく
1903年明治36

11月15日「平民新聞」発刊<世界を挙げて軍備撤廃、戦争禁絶を期す>
1904年明治37 12月県議会で再び「新平民問題」を取り上げ実例を挙げて追及する 1904年(明治37年) 日露戦争 (- 1905年)  与謝野晶子『君しにたまふこと勿れ』を発表
1905年明治38 〇9月上旬作
「アア王よ 王は何の為に国てうものを 築きし / アア王よ 王は何かのために 戦とふものを 宣せし /王の軍人は 能く国を護り悉く斃れたり /王の宰相は 能く国を売り悉く肥えたり / 王よ 王の国は王の手に在らず / 王よ 王の臣民は王の手に在らず / 而して 光栄は悉く宰臣のポケットに隠れたり / 而して 父夫妾(わらは)が子等は 悉く 棺に覆はれたり / ああ 妾ら 何れに適帰せん! / 更に 王の明を待たん? / 否、否、否」  
〇宇摩郡兵事会での挨拶。以下山上次郎氏の要約に従う。
1)日露戦争の痛ましい戦傷病者と驚くべき戦費を説き、戦争の日を訴え、世界平和機構の建設を訴える
2)ロシアは侵略国。清韓両国の主権が侵されるにいたっては日本は矛を取らざるを得ない。この戦は善戦だ。
3)今度の戦争は正者必勝を示した。勝利の原因は天佑でも天皇の威厳でもない。
4)真の勝因は武士道すなわち人道主義である。
5)この戦いは単に日本とロシアの戦いではなく世界の人道の敵との戦いであった。 

〇12月県議会ではさらに詳細な調査の上、三度「新平民問題」を追及。また犬寄工事問題(県予算価格31053円に対し落札金が31020円)、汚職の疑いを追及。さらに「陸軍野砲発射演習場への道路建設」の撤回を要求。結局道路は建設されたが、この演習場は一発の砲弾試射もないまま放置された。
1905年(明治38年)9月4日 ポーツマス講和条約 9月5日ポーツマス条約反対日比谷事件。
1908年明治39 〇4月1日日露戦争凱旋軍人への感謝文 〇8月、土居町藤原部落の共同墓地にある二人の戦死者の墓文字を書く。
1)高石音吉墓(戦死者への賛美の声を紹介した後、「しかれども余はむしろここにいたる所以をかなしみうたた徴兵の一大背理にして 戦争の一大惨毒だるを歎くなり云々」)
2)近藤嶺吉墓(「人もつて壮となし栄となす しかれども予むしろことのここにいたるゆえんのものを哀しむ けだしまた君の心なればなり」)
六月、幸徳秋水アメリカから帰国
1907年明治40 42歳 〇3月、日露戦役記念碑を書く
「・・・由来戦争の非は世界の公論であるのに 事実は之に反し戦は亦明日にもはじまるのである ああ之を如何すればよいか 他なし 世界人類の為に 忠君愛国の四字を滅するにありと予は思ふ 云々」 

〇改選期に当たって、政治を捨てて学問の道を選ぶ。
11月3日天長節サンフランシスコ日本総領事館入り口に「無政府党革命党暗殺主義者」の張り紙「・・・しかして他の一方には、人民をして足下(天皇をさす)に従順ならしめんが為に、奴隷道徳、即ち忠君愛国主義を土台とせる教育を以てす・・・」
1908年明治41 上京。東京帝国大学の人類学及び歴史教室に籍を置いて、重野安_、久米邦武、坪井正五郎、村松瞭、白鳥庫吉らに師事。同学の鳥居竜蔵とは特に親しかった。
1910年明治43 〇紀年修正に取り組む。日記「一月四日 終日日韓古史年表を訂す 一月五日 終日日韓古史年表を訂す 三国遺事を校して発見あり ・・・」
 「日韓古史年表」は支那、高句麗、百済、新羅、駕洛、倭などの関係を精密に考証の上対照解説したもの 
〇「三韓世系論緒論」「新羅世系論」「高句麗世系論」に取り組む。 
〇日記は11月16日で切れている。
〇6月高橋八作村長に就任 
〇8月10日松尾幾三郎三島警察署長に就任 
〇新任署長高橋村長に挨拶のおり、村長が安藤正楽を自慢して日露戦役記念碑の拓本を見せる。署長県へ報告、県警が東京本省へ報告。安藤正楽取調べとなる。 
〇 (山上次郎説)11月16日昼前、安藤正楽拘留せらる。留守宅ならびに弟宅、徹底的な家宅捜査を受ける
〇この時期のものか?三首
1)どんな場合でも驚くまいと誓った心が動いてくる嗚呼情けない夜の十一時 
2)たわけめが目の前で白薔薇をふみにじるのだアア口惜しい 
3)泥履で踏まれても貞操がそこに光って居るそれをみると嬉しひ様な悲しさだ
1910年(明治43年)〇8月 日韓併合、〇大逆事件 5月宮下太吉ら三人を逮捕、6月幸徳秋水を逮捕、以後全国数百名を逮捕。 12月10日特別裁判、29日結審
1911年明治44 〇1月24日。前年11月16日以来二ヶ月ぶりの鳥居龍蔵宛手紙 
〇(山上説)安藤、1月24日釈放か
〇4月11日「日本古代史紀年論の内 世系論一」脱稿 日本紀年を652年漫張との結論を得る。
〇1月18日幸徳秋水ら24人に大逆罪を適用死刑を宣告。19日坂本ら12名が天皇の恩赦で幹懲役。残り秋水ら12名は死刑確定、1月24日死刑執行
1915年大正2 〇2月には『紀年修正論』完成か 
〇『紀年論』出版社に引き受け手なし。上海での出版を計画したが、危険人物として保安条例により東京追放処分を受け頓挫、帰郷する。「紀年論」を焼却する。 
11月10日大正天皇即位 (・・・1907年、嘉仁親王は大韓帝国を訪れ、皇帝純宗やの皇太子 李垠と会っているが、親王は李垠をたいそう気に入り、その後朝鮮語を学び始めたという。朝鮮人が蔑まれていた当時の時代背景を考えれば注目に値する。親王の朝鮮語学習はどの程度まで進んだかは定かでないが、天皇即位後も続けられていたといい、彼の死ぬ間際に李垠が見舞った際、朝鮮語を話そうとしたものの、既に病気で舌が回らなかったため結局、朝鮮語として聴き取ることは出来なかったと伝えられている。)
1914年大正3 5月11日の日記「国家教育は畢竟奴隷教育の変称なり 表面では何とか口賢しく理由など云へど少し区斬り込めば迷路に陥り手直進する能はず」  
夫人の父宛の手紙「今の教育はどうです 唯虚偽を教えるばかりで其結果知るべきであります」
 〇第一次世界大戦勃発 8月23日日本対独参戦
1915年大正4 1月29日の日記「・・・時に号外あり 曰く日本政府は支那の回答に服せず 朝議最後の通牒を発することに決せり 為に嗚呼友邦で以て値なし 茲に至る、畢竟居直強盗の類のみ」
〇毎年歌会始勅題をテーマにした絵を描いているが、この年の勅題は「社頭杉」であったが、安藤が描いた絵は、全裸の女が老杉の幹にのろい釘を打っている図柄であった。

〇中村不折、下村為山の勧めで上野の健筆会に出品していたがこの年は「社頭杉」を出品。官憲から撤回を命ぜられる。

1920年大正9 銀婚記念事業として春日井水道掘削に着手。
1921年大正10 靖国神社の遊就館にはいり久々に愚弟利喜太の肖像画などをみてなみだなどしぬ 三首

1)君の顔を 見ると嬉しひが さそふものは 冷たい涙だ 月島丸の 影も恨みだ 
2)喜んで死んだ人も 悲しんだ人も だまされた人も みな同じ社に 祀られるとは 
3)国のためか 自分のためか 妻子のためか 死もいろいろあらふに 形ばかり ここに祀られるとは

1928年昭和3 飼っていたネコを「ギチ」と名づける。田中義一総理のことだという。軍人嫌いであった。
1941年昭和15 〇無私奉公は父祖よりの綱 七十五年こころ自ずから康し 介せず世間滔々の流れ 風塵は吾において攘(はら)ふべくもなし

〇以後軍部批判を止め戦争協力へと進む。山上次郎「安藤は近郷の誰彼となく出征者に対しては駅頭まで見送り、戦死者が出ればかならず服装を正して、自分が描いた梅の半切に水引をかけて持参、霊前に供えた。八十の老翁のこの行為は崇高にさえ見えた。その絵の数は百を越した。」
(参考)内村鑑三の『戦時における非戦主義者の態度』:「二、平和を薦(すす)めるの時期は未だ当分来たらず、去ればとて戦争を止めることは出来ません、それならば私共平和主義者は今は茫然として手を束(つか)ねて居る乎といふに決して爾うではありません、爰に今日、私共にとりて最も相応(ふさは)しき一つの事業が具へられてあります、それは出征兵士の遺族の慰問であります、私共、金銭に乏しき者は勿論、世の宝を以て多く彼等可憐の民を慰めることは出来ません、然しながら慰藉は金銭の施与にのみ限りませんから、私共は力相応(ちからさうおう)の援助(たすけ)を彼等に供することが出来ます、或は彼等の家事の相談相手となり、或は我が家の剰余品を以て彼等の不足を補ひ、又或る特別の場合に於ては彼等に心霊上の慰藉を供して彼等の寂寥の一部分を癒(いや)すことも出来ます、我等は斯うして軍人を慰めて別 に戦争其物を是認するのではありません、是等無辜(むこ)の民に取りましては 戦争は天災の一種と見ても宜しいと思ひます、是れは彼等が招いて起つた事で もなく、又好んで迎へた事でもありません、故に私共は飢饉や海嘯(つなみ)の 時に彼等を援けると同じ心を以て私共の満腔の同情を彼等に表することが出来 ます、現に非戦論者として世界に有名なる露国のトルストイ伯の如きも、宣戦 の布告に接するや、直に彼の著書一千組を寄附して其売上高を以て兵士遺族の 救済に当てたとのことであります、此場合に於ける伯の此行為を評して伯を以 てその平生の主義に背く者なりとなす者の如きは是れ伯の非戦主義を以て情も なき熱もなき、唯一片の偏屈(へんくつ)主義と見做す者であります、非戦主義 は我がための主義ではありません、是れは人を救ふための主義であります、召 集されし兵土を励まし、其遺族を慰むるが如きは是れ決して非戦主義に反くこ とではありません。 三、戦争はもちろん永久に継続(つゞ
1945年昭和20 〇原爆投下を歌う1)七万の同胞が一弾に消えて行きし原子弾八月六日広島の朝 2)国のためには毒弾は恐るるに足らざるも人類は破滅せん人無くて国ありや 3)科学の応用こそ人類の破滅人生あるが如く無きが如く 4)戦争の終止符ともならば原子弾こそ平和の神更に恐ろしき神が出ずと誰か云へよう 〇終戦所感 1)人生きて牧耕を楽しむ 赤裸々 何ぞ兵を用いん 伝家の宝刀土の如し 筆一管にして想い縦横 2)三千年来始めて膝を屈す 戦争を抛棄して天日に謝す 新年の勅題松上の雪 まず和平を祝して旧筆を洗ふ  〇山上次郎が、「敗戦の悔しさのあまり安藤正楽を訪ねて、このか仇討ちは何時かはしなければならない、特にソ連の出方は卑怯且つ無礼極まると悲憤慷慨したときだった。それまで黙っていた安藤は筆者(山上)をにらみつけて「日本は負けた。してはならない戦争をしたのだ。それを仇討ちとはなんだ。そういう考えがまた戦争につながるのだ」といって、今度は静かな口調で、『藤原の芸場にある日露戦争の碑をたたいて来い、どういう音がするか』といった。 米軍、広島に原爆投下。
1946年昭和21 〇山上「終戦後の安藤はまずは幸福だったといってよい。日露戦争前夜から考えていた軍隊無用、そして戦争放棄、永世平和を標榜する日本になったのだから思い通りであった。」 
〇2月2日「大観す仮死五十年 返魂八十一年の春 世事紛々事すでに決す 我又白雲山房の人
〇2月1日毎日新聞天皇大権を認めた憲法問題調査委員会の改憲要綱をスクープ〇2月3日マッカーサー、GHQ民生局に戦争放棄など三原則を示し憲法草案作成を命令 〇11月3日日本国憲法公布
1952年昭和27 〇地下四十尺より湧き来て我膳潤す春日井の水の貴さや 

〇絶筆三首のうちの一首
 「かつて岳に登らず平地を愛す 八十八年為す所何ぞ 晴耕雨読は父祖の賜 故人今に至つて我を棄てず」 
山上に応えて云う「高い山といっても上がれば終わりだ。平地は平凡なようだが無限だ・無限を追及してゆかねば面白くない。」さらに「今頃の人は山を登って山を征服したなんていうが、なんという浅ましいことか。自然は征服できるものではない」

1953年昭和28 7月24日没。行年八十八