東学党鎮圧のため派遣隊長に与うる訓令

08年07月24日 木曜日
『総点検 日本の戦争はなんだったか』(吉岡吉典著 新日本出版社)116ページ〜117ページに掲載されている資料を転載させていただく。漢字を新字体に直した。
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資料6 東学農民革命運動がさらに広がることを恐れた日本軍が、その鎮圧のために発した「訓令」。韓国の国史編纂委員会発行『 駐韓日本公使館記録]によると、仁川兵姑司令官陸軍中佐伊藤祐義から後備兵站十九大隊南小四郎にあてたもので、全文は次のとおり(四四四ー四四五頁から)。

「東学党鎮圧のため派遣隊長に与うる訓令」

(一八九四年十一月十日)
    東学党鎮圧ノ為メ派遣隊長ニ与フル訓令

一、 東学党ハ目下忠清道忠州塊山及清州地方ニ群集シ尚ホ余党ハ全羅忠清両道所在各地ニ出没スルノ報告アルヲ以テ 其根拠ヲ探究シ之ヲ探究シ之ヲ剿絶スべシ

二、 朝鮮政府ノ請求ニ依リ 後備歩兵第十九大隊ハ 次項ニ示ス三道ヲ分進シ 韓兵ト協力シ沿道所在ノ同党類ヲ撃破シ 其禍根ヲ剿滅シ 以テ再与後患ヲ遺サシメサルヲ要ス 而シテ其首領ト認ムル者ハ縛シテ京城公使館ニ送リ 尚ホ同党巨魁等往復書類 若クハ政府部内ノ官吏地方官或ハ有力ノ筋ヨリ同党へ往復シタル書類ハ 勉メテ之ヲ収拾シ 併セテ之ヲ公使館ニ致スへシ 尤モ脅従者ニ至テハ緩急其度ヲ計量シ其柔順ニ帰スルモノニ在テハ 之ヲ寛恕シ敢テ苛酷ノ処為ニ陥ルヲ避クへシ
但 這般東学党鎮圧ノ為メ 前後派遣セラレタ韓兵各隊ノ進退調度 総テ我士官ノ指揮命令ニ服従シ 我軍法ヲ守リ 若シ之ニ違背シタルモノハ 軍律ニ従テ処分セラルへキ旨 朝鮮政府ヨリ韓兵各隊長へ達シ済ニ付 三路ヨリ既ニ出発若クハ将来出発スへキ韓兵ノ進退ハ総て 我士官ヨリ指揮命令ス可シ

三、 歩兵一中除ハ西路即チ 水原天安及公州ヲ経テ全州府街道ヲ前進シ 其進路ノ左右駅邑ヲ偵察シ 特ニ 恩津 礪山 咸悦 扶安 萬頃 金溝 古阜 興徳地方ヲ 厳密ニ捜索シ尚ホ進ンテ霊光 長城ヲ経テ 南原ニ出テ 其進路ノ左右各群邑ヲ偵察シ殊ニ南原ノ偵察ハ厳密ニス可シ 歩兵一中除ハ 中路即チ 龍仁 竹山 及清州ヲ経テ 星州街道ヲ前進シ 其進路ノ左右各駅邑ヲ偵察シ 特ニ清安 報恩 青山地方ハ 捜索ヲ密ニス可シ 

歩兵一中隊ハ 東路(我兵站線路) 即チ 可興 忠州 聞慶 及ヒ 洛東ヲ経テ 大邸府街道ヲ前進シテ 其進路ノ左右各騨邑ヲ偵察シ 特ニ左ハ原州 清風 右ハ陰城 槐山ハ 捜索ヲ密ニス可シ

各中除ハ成シ得ル限リ 互ニ気脈ヲ通シ 各所共成ル可ク合囲剿絶ノ方略ヲ取リ 共ニ其効ヲ収メン事ヲ期ス可シ 各中除ハ賊類ヲ剿討シ 其余燼ヲ見サルニ至レハ 慶尚道洛東ニ集合シ 後命ヲ待ツ可シ 

大隊本部ハ中路分進隊ト共ニ行進ス可シ


四、各路分進ノ中隊ハ 概ネ別紙日割表ニ準由シ 東路分進中隊ヲ稍々先行セシメ 以テ匪徒ヲ東北ヨリ西南 即チ全羅道ノ方面ニ駆逐セン事ヲ勉ムへシ 万一 匪徒等 江原 咸鏡ノ方面 即チ 俄(※ロシアのこと)境ニ近キ 地方ニ逃逸スルトキハ 後害ヲ胎スル事鮮カラサルニ付 巌密ニ之ヲ像防スへシ 


但シ成シ得ル限リ互ニ聯絡ヲ取リ 各其所在ヲ知ラセン事ヲ謀ル可シ


バ、各分進中隊ニハ 韓廷ヨリ鎮撫使 及 内務吏 等ヲ附随ス 鎮撫使ハ 各地ニ於テ 監司府使等ヲ督シ党類ニ対シテ 順逆ヲ説キ利害ヲ論トシ 彼等ヲシテ反省帰順セシムルヲ専任トス


内務官吏ハ 各中隊ニ随行シ 隊長ノ命ヲ奉シ 沿道到ル処 糧食其他軍需品ノ調弁 人馬ノ雇傭 宿舎供給等ヲ 斡旋シ各中隊ノ要求ヲ満足セシムルヲ任トス

六、各中除ハ、三日分ノ糧食及二日分ノ携帯口糧 並ニ炊爨(すいさん)具等ヲ携行スへシ 為之 駄馬若干頭ヲ属セシム
但シ 日々ノ糧食諸品ハ 成シ得ル限リ地方ニ於テ調弁シ 若シ携行糧食品ヲ消費シタルトキハ 勉メテ速カニ 地方ノ物資ヲ買弁補充スルヲ要ス七、東学党鎮撫ニ係ル諸報告ハ 大隊長及各分進中隊長ヨリ 時々下官ニ致スへシ(下官ハ仁川兵姑司令部ニ在リ)

仁川兵站司令官 伊藤祐義


後備歩兵第十九大隊長 南小四郎殿