1894年日本軍中路軍の弾圧策と
東学農民革命軍農民軍の対応


申栄祐  (忠北大学校人文大学史学科教授)


訳出者から
※訳文は申栄祐先生の許可を得て掲載しています。
※ 文中 (*【海】/) とあるのは海南新聞(愛媛新聞の前身紙)の後備歩兵第十九大隊関係記事です。また(*【忠清日報】 )とあるのは、忠清日報掲載のチェ・ギルスン氏による連載記事「東学農民革命の現場を訪ねて」の該当章です。いずれも訳出者が日本人読者の理解を助ける目的で付け加えました。

1 前書き 

2 日本軍の朝鮮進駐と農民軍鎮圧軍の増派

3 日本軍後備歩兵第十九大隊の鎮圧方針

4 後備歩兵第十九大隊中路軍の弾圧策と東学農民軍の対

5 結び

 前書き

 1894年東学農民軍の蜂起状況(*【海】5/19,5/27,5/27,6/1, 6/2,6/6,6/12,6/13,6/14,6/15,6/16.6/19.6/20 )と清軍の派兵を細かく探った日本が6月以後朝鮮に大規模な兵力を進駐させたことには(【海】6/9)、よく知られているように、二つの目的があった。一つは朝鮮政府を軍事力で威圧し保護国としようとしたことであり、今ひとつの目的は朝鮮に政治、軍事介入している清国と一戦を交えるためであった。

 日本軍が6月21日((陽暦7/19))未明景福宮を奇襲占領した事件(*【海】 8/2)は朝鮮政府と圧迫した一連の強圧行為の中でも最も強力な打撃を与えた事件であった。これ以後朝鮮は日本の強要を拒むことはできなくなった。清との戦争において朝鮮政府の協力を要求する同盟を締結しており、日本軍を追い出そうとして再蜂起した東学農民軍を鎮圧する軍事活動に協力するしかなかった。

 東学農民軍が再蜂起する以前の7月から、日本と清(*【海】6/15)は全面戦争状態(*【海】6/29,)
に入って行った。平壌戦闘で勝利した日本は鴨緑江を越え清国内部に侵入し熾烈な戦闘を展開した。朝鮮はこの戦争で日本軍の兵站基地の役割を強要された。東莱に上陸した日本軍は洛東江と南漢江繋ぐ兵站線に沿って北上した。

 東学農民軍が日本軍を駆逐しょうとした目的で再蜂起(*【海】6/30)するやいなや、日本軍は後備歩兵第十九大隊を増派し鎮圧を試みた。朝鮮に入って来たほかの日本軍部隊も東学農民革命鎮圧に加勢したのだが、最も多くの犠牲を東学農民軍に強いたのは後備歩兵第十九大隊であった。この論文は日本軍が朝鮮に侵入した背景を整理した後に後備歩兵第十九大隊の中路軍、即ち中路分進隊が忠清道一帯を縦断しつつ取った鎮圧策を解明することである。

全羅道境界を越えつつ公州・牛金峙戦闘訳注 を敢行した西路軍、即ち西路分進隊を合流しいわば’剿滅’を目標に虐殺をほしいままにした。日本軍の鎮圧策を口述した大隊長南小四郎少佐の口述を通して確認することができるようになった。

日本軍の朝鮮進駐と東学農民軍鎮圧軍の増派

日本軍が東学農民軍を鎮圧し大規模の虐殺を敢行したことは軍事作戦上不可避の選択であったのか?当時日本軍は清軍と全面戦を展開していた。日本が挑発して勃発したこの戦争で、日本は長い年月にわたって国力を傾注して醸成してきた軍事力を動員した。

 1882年壬午軍乱と1884年甲申政変以後、朝鮮から後退した日本は10年間戦争準備を通して軍事力を増強してきた。1888年には陸軍は7個師団、歩兵14個旅団、歩兵7個連隊、騎兵2個大隊、工兵6個大隊、輜重兵6個大隊に拡大した。海軍力も英国などから3000トン乃至4000トン級、松島、厳島、橋立、吉野、扶桑、浪速、高千穂などを保有した。

 日本は朝鮮と清の遼東地域に持てる軍事力を総動員した。北洋艦隊と開戦を展開した海軍はいうまでもなく、陸軍の規模は2個軍司令部を急造して朝鮮と遼東に派兵するほど大規模であった。


 
1894 6 21 日(陽暦 7 23 日)未明、日本軍が景福宮を奇襲して占拠した。景福宮を侵犯した日本軍は朝鮮政府の許諾もなしに不法に仁川に上陸し竜山に押し入って駐屯した陸軍少将大島義昌麾下の混成第 9 旅団の兵力であった。日本公使館での指揮のもと日本軍第 21 旅団の兵力が景福宮を奇襲してくるや宮闕守備隊は光化門で頑強に反撃を加えた。光化門占拠に失敗した日本軍は孝子洞側に回り、迎秋門を破壊して闕内に乱入した。

宮闕守備兵は明け方 4 20 分から 7 時半まで約 3 時間にわたり反撃したが、火力の劣勢のため北側の城壁を越え宮闕の外へ追い出されてしまった。5

 国王を間近な距離に囲んでいた守備兵は、咸和堂の中にとどまっていた高宗が、日本軍の突入によって新たな犠牲が生じないように武器を放棄するよう命令したので、50 挺の銃を雍和門の外へ差し出し武装解除した。以後景福宮は完全に日本軍に占領され、国王高宗と厳妃は日本軍の人質となった。

 日本軍は、景福宮を奇襲と同時に、兵卒 300 名が駐屯する光化門の親軍壮衛営を奇襲し武器を奪った。この時日本軍は新式銃であるMartin 245 挺、Spencer銃と火縄銃 214 挺を含む 1000 挺以上の銃を日本軍営へ持ち去った。6

 この事件を指揮した大島旅団長は京軍兵営と景福宮などから奪取した武器について次のような記録を残している。

 今回朝鮮政府から押収した兵器を見るに、大砲 20 余門のうち克蘆伯訳注 山砲5門、同長筒砲3門、カトリン器械砲11門、その他旧式滑(石唐)砲数門がありまた弾子はすこぶる小量でした。そしてその小銃にはモーゼル、レミントン、マルチニ、ケーベル、エンヒル、火縄銃、弓と槍、そして数え切れない各種の奇妙な銃類がありました。またその弾薬は大変少なくこれらを有力な兵器だとみることはできませんでした。ただ本旅団が仁川に初めて到着したころ清国から輸入した、新式モーゼル銃約1000 挺程度が精巧で実際の使用に適するものであるだけでした。

--1894/7/24--
翌日
6 22 日(陽暦7月24日)から高宗は親裁を停止するしかなかった。日本公使大島圭介が強要して大院君に摂政をするようにしたのである。そして金弘集を首班とする開化派政権を立ち上げた。開化派政権は軍国機務処を設置し国政全般にわたって改革を推進した。総ての政策と法を軍国機務処で決定することになった。大院君を経て施行する体制となってはいたが、実質的な決定権にはほど遠かった。このような甲午改革は日本の影響のもとに急激に進行され人々に警戒心を呼び起こすことになった。

 日清間の戦争は6月23日(陽暦7月25日)牙山沖にある豊島近海での海戦から始まった。


 日本艦隊は、清兵1500名を載せて来航した英国国籍の輸送艦を沈没させその大部分を溺死させた。その四日後、清軍は稷山訳注 、成歓訳注 で日本軍を激戦を交えたが敗北し牙山を経て公州まで後退した。この戦闘で一方的に退却させられた清軍4千兵は清州と忠訳注 を経て江原道へ迂回し平壌へ移動した。清の李鴻章は、日本軍が景福宮を包囲し国王を人質に取り、豊島で始まった海戦で清の艦隊が背走したという知らせを受けて開戦準備に着手した。

7 1 日(陽暦 8 1 日)清の光緒帝が正式に宣戦を布告し、日本王睦仁も公式に宣戦布告し(【海】8/2)、両国は戦争状態に入った(*【海】7/1,,7/6,7/11,)。翌年 3 23 日(陽暦 4 17 日)下関条約が締結されるまで継続されたこの戦争は朝鮮領土内から戦線が広がり始めた。

 日本軍の奇襲によって海戦と陸戦の緒戦で敗北した清軍は二箇所に作戦計画を集中させた。一つは北洋海軍(写真:北洋海軍「鎮遠」)を渤海湾の入り口に陣取らせ旅順要塞地と天津とを結ぶ航路を固守しつつ、陸軍の朝鮮進駐を援護することであった。今一つは陸軍を平壌に集結させた後に再度南下して、朝鮮に入ってきた日本陸軍を攻撃することであった。8清政府によって陸軍の集結地と定められた平壌は戦乱の中心地に巻き込まれていった。

 北洋大臣李鴻章(写真左)の命令を受け鴨緑江を越え平壌に進駐してきた部隊は左宝貴の奉軍と豊中夏の盛軍そして馬玉崑の穀軍であった。ここへ葉志超と聶士成が率いて合流した蘆防軍が加勢し 1 5 千名以上が集結した。葉志超は成歓で敗退した後公州と清州を経て江原道へ迂回して平壌へ入っていった。清軍の最終目標はソウルへ入城して日本軍を追い出すことであった。

 しかし壬午軍乱と甲申政変以後 10 年以上清国と決戦を準備してきた日本軍の対応は正確であった。清国に派遣された偵察員たちは清国各地の城から派兵命令を受けた軍隊が武装と訓練面で日本軍に比べ劣等である事実をよく把握しており、天津と香港などから清国の動向と軍隊に関する情報を仔細に調査し報告していた。日本は清の心臓に該当する地域を一挙に制圧する目標を立てた。

--1894/8/5--

 
7 5 日(陽暦8月5日)広島の大本営(写真右:広島にあった大本営)で出された’作戦大方針’には日本軍の目標が提示されていた。それは清軍を朝鮮国内から駆逐するのみにとどまらない構想で、最終目標は日本軍を清国の直隷省訳注 に直行させ清軍の主力と決戦し清国政府の投降を強いるというものであった。この方針に従い日本軍第 5 師団と 3 師団が朝鮮に派遣され平壌へ直行した。野津道貫10中将が指揮する第 5 師団の本隊は 76 日(陽暦8月6日)釜山に到着しソウルへ進んだが日本軍参謀総長熾仁に行軍過程を報告した。


野津師団長は
7 6 日(陽暦8月6日)歩兵 12 連隊 3 大隊の 3 個中隊を中路軍として編成し陸路北上することに決定し、残りは和歌浦丸に乗船させ元山に向かうことにした。(【海】)8/9子を殺して従軍  8/2,8/13救恤 8/30救恤受けず)

日(陽暦8月8日)師団長と中路軍が釜山を出発し梁山市に到着したのだがソウルに到着するまでの日程を見ると下のようである。

--1894/8/9--

 
9 日(陽暦8月9日)には梁山市を出発して密陽に到着、10 日には密陽から清道まで進み、11 日には清道を発って大邱に入った。大邱には慶尚監使に会見し支援を頼み朝鮮貨幣を確保するなどの仕事でもう一日宿泊し 13 日に大邱を出発し仁同に到着した。

 14 日(陽暦8月14日)には仁同を出発して尚州に到着、15 日(陽暦8月15日)には尚州を発って聞慶に到着した。16 日(陽暦8月16日)には聞慶を出発し鳥嶺を経て忠州に到着した。17 日(陽暦8月17日)には可興渡しに到着して午後 1 時舟に乗って南漢江水路でソウルへ向かった。

18 日(陽暦8月18日)の午後ちょうど 9 30 分광広渡し(広津)に到着した。

この行軍路は先発隊が来て兵站と軍用電信網を設置した路線として以後日本軍大部隊が北上する行路となった。

 7 月下旬第 5 師団は釜山に上陸した部隊と装備を兵站路線で移動する一方、元山に上陸させた部隊も平壌付近に集結させ清軍と対峙した

8 月始め第 3 師団の兵力の半分をさらに朝鮮に派兵し兵力を 19600 名まで造兵し清軍より数的に優位に立った。そして山県有明を司令官とする第 1 軍を編成し大島の混成9旅団と野津の第 5 師団、そして桂太郎中将の第 3 師団を配属させた。

8 2 日(陽暦9月1日)山県司令官は仁川に到着し第 1 軍を指揮し平壌攻撃を準備した。

 8 2 日(陽暦 9 12 日)平壌に到着した日本軍は平壌城を包囲し一連の戦闘が開始された。平壌には朝鮮官軍が 600 名もおり、平壌監使が道内各地の猟師 1500 名を動員して清軍とともに城を守った。平壌監使はまた清軍に軍糧米を提供した。このように平壌戦闘は朝鮮の官軍と清軍が連合勢力をなし日本軍の攻撃を防御する形態を取っていた。これは高宗と大院君の指図なしではありえず、ソウルで日本軍に掌握され同盟条約を結び日本軍支援を強要されている事とは全く異なる状況だった。

 8 5 日(陽暦 9 15 日)総攻撃を敢行した日本軍(訳注:松山歩兵第 22 連隊第 1・第3大隊も参戦)は清軍の頑強な防衛網を突破して奉軍の統領である左宝貴を戦死させた後 8 6 日(陽暦 9 16 日)平壌城を占領した。葉志超などが率いる清軍は後退を重ね 8 14日(9 24 日)鴨緑江を越えて清の領土へ退いた。

 8 7 日(陽暦9月6日)には丁汝昌提督が指揮する北洋艦隊が伊東祐亨司令官が指揮する日本連合艦隊と海戦を交えた。この海戦でも日本の連合艦隊が勝利し北洋艦隊は壊滅し黄海の制海権は日本海軍が掌握した。

 日本の大本営は旅順攻略を目標として第 1 師団と第 2 師団そして混成 12 旅団でもって2 軍を編成し、伊藤博文内閣の陸軍大臣大山巌大将を司令官に選任した。

 日本軍第 1 軍は平壌から北上して 9 26 日(陽暦 10 24 日)鴨緑江沿岸に到着した。翌日日本軍は鴨緑江に臨時橋脚を設置し渡河に成功し清軍が防御線を張っていた九連城を攻撃し占領した。朝鮮から清に入る関門を守っていた防衛軍が壊滅したのである。続いて第 1 軍は西進し重要要塞地を一つ一つ占拠した。

 第 2 軍は連合艦隊の援護を受け 9 25 日(陽暦 10 23 日)遼東半島の花園に上陸し大連と旅順へ直行した。10 25 日(陽暦 11 22 日)旅順市街地に入ってきた日本軍は四日間で’住民 2 万余名’を虐殺した。16

 冬に入って日本軍大本営は第 1 軍に冬営訳注を設置し命令を待つように指示したのだが山県司令官はこれを聞き入れず海城を攻撃する冒険を敢行した。このため山県司令官を国内に召還し、彼のあとに野津第 5 師団長を第 1 軍司令官に任命し第 1 軍を指揮させた。

 日清間の戦争は 1895 年に入っても熾烈に展開されたが日本軍の一方的な優勢に帰結した。第 1 軍は 2 月(陰暦2月1日は陽暦2月25日)牛荘と営口を占領し、第 2 軍は山東半島の威海衛を占領、海軍は北洋海軍を降伏させた。

 これとともに長期間にわたって展開された日清戦争で、朝鮮は日本軍の兵站路における核心的な地域になった。釜山からソウルを経て義州に連結する兵站路は兵力と武器、そして軍糧および各種装備を供給する乳腺のような役割を果たした。そしてこの兵站線に沿って設置された電信網は広島の大本営から戦場へ直結する神経細胞のような機能をもった。すべての指示と報告そして支援要請などの戦時連絡の中枢であったのである。

 日本軍は、戦争に必要な兵站と電信網構築を、朝鮮政府の許諾も受けていないのに工
兵隊と電線架設隊を派遣して工事を強行した。景福宮侵犯と豊島沖海戦がある前からこのような不法行為に着手していた(*【海】6/20.6/21 6/23)。東莱副使閔泳敦は 6 22 日付の陳啓訳注で”日本人が電線を架設すると言っては好き勝手に内地をうろつき回っているのだが、辺境を守る職責にある私はこれを鎮圧することができない”と報告し処罰を待つと言上していた。国王は処罰を待つ必要はないと言ったのだが、日本軍は 6 21 日(陽暦 7 23 日)ソウル内の主要機関を軍事占領し電報局を占領し、事実上国内電信網を奪取し軍用電信として使用していた。莫大な費用を投入して設置した国家電信網が日本軍の情報戦に活用されたということだ。

 7 月はじめ固城訳注から呉宖黙が日本軍工兵隊が慶尚道一帯で兵站部を設置し道路開設工事をしている事を驚くべき事件として記録している。この時道路工事に動員された日本軍と人夫たちの数は少ない数ではなかった。”工兵第 6 大隊第 1 中隊、工兵第 3 大隊1 中隊、第 3 師団工兵隊第 1 中隊半、石工 300 名、井戸堀職と樋職 23 名、第 1 軍用電線架設隊、日本人人夫 2,162 名”規模で地域民たちを驚かすに充分の数であった。

 始めは日本軍と人夫たちが国内を横行しつつ道路を修繕して電信柱を立て電線と連結するようすを見た人々はその途方もない規模と、目の前でどんどん進められる工事に驚いた。この動きに対して住民たちは東学組織を中心にただちに抵抗運動を始めることになった。一方朝鮮政府と地方機関のほうは日本軍のこのような工事に協調しないわけにはいかなかった。なぜなら日本が清との戦争を始め、朝鮮は日本との盟約を結ばされたが、これがが日本軍に協力しなければならない根拠となっていたのであった。

 日本軍の景福宮侵犯の直後から、東学農民軍は日本勢力の追い出しを目標に武装蜂起を準備してきた【海6/18 】。慶尚道と忠清道の日本軍兵站網と電信網の近くで組織された東学農民軍は、日本軍兵站部と電信所の追い出しを当面の目標とした。7 月(7月1日は陽暦7月28日)から各地で東学農民軍の攻勢が始まった(*【海】9/4)。兵站支援を妨害し電信戦(*【海】9/4)を妨げる方針が優先選択された。これは日本軍と正面で衝突しないで効果を上げる事ができる方策であった。

 清と戦争を始めるに当たって日本軍の一番の弱点として浮き彫りになっていたことは、朝鮮内部を縦断する遠距離兵站補給であった。武器と弾薬そして軍糧等の補給品の輸送は牛や馬を利用したり朝鮮人人夫を募集して運ぶ以外に他の手段はなかった。日本軍は日本人人夫を雇用もしはしたが、これらと日本軍の兵力だけで補給品を運搬する事には限界があった。慶尚道と忠清道を通過する道は平坦な地域もあるが、大小の峠を越えなければならず輸送をさまたげる河川も無数にあった。朝鮮人夫が背負子をしょって運搬する事が効率的で人夫労賃もやすいにで負担も少なかった。

日本軍第 5 師団兵力が北上した 7 3 日(陽暦7月30日)、7,8百頭もの牛が軍糧を運び、これを見た大邱の人々はおびえて避難する人々も多かったという。

5 師団長野津中将が北上した時である 7 17 日(陽暦8月13日)延豊縣監・韓鎮泰は雇軍 355 名を募集して日本軍安保兵站部で待っているようにという通知を受け取った。師団本部が移動するとき莫大な軍需物資を運搬しなければならないので地方官に人夫を動員させ解決しようとしたのである。

7 22 日(陽暦8月18日)忠州牧使閔泳綺は日本軍の要求通り人夫数千名を募集した忠清監使 李ホンヨン訳注に報告している。即ち師団主勢力が移動するときも補給品輸送を朝鮮人夫たちに頼ったということだ。

 このような状況は平壌戦闘と鴨緑江戦闘そして遼東半島に入って展開した戦闘期間中に於いても続いた。東学農民軍が兵站網を脅かすことは戦争遂行に直接影響を与えることができるのだった。日本軍は戦力を左右する兵站輸送に損害がでるようになると即刻対応した。

 8 23 日(陽暦 9 22 日)日本軍が 平壌に占領し鴨緑江に向かっ北進する準備をしていたとき釜山の日本総領事室田義文が大鳥公使に送った報告文はその事実をよく伝えている。忠清道忠州の河潭訳注と可興訳注近傍の東学党が住民が日本軍隊の荷物を運搬してやることをできなくしたので、兵站部で毎日必要な人夫が 100 名であるのに応募してきた住民はわずか4,5名だけだったというのである。24はじめは可興兵站部の日本軍が周辺の東学統領に会い説得したのであるが他の場所にいる東学の高位指導者が命令しなければどうする事もできないと聞かされた。しかし室田総領事は’強制徴発の手段’を取るように可興兵站部に指示した。また大鳥公使にも朝鮮政府に強要して監使と地方官に軍事物資輸送のため人夫を動員させるように要請していた。(【忠清日報】人夫応募妨害

 中国側の研究においても朝鮮の人民が日本軍を牽制して大兵力の補給を混乱させたという事実に注目しこれが日本軍の持久戦に不利な要素であると指摘されていた。日本が国力を傾けて清軍との決戦を進める時期に慶尚道と忠清道の東学農民軍は日本軍の戦力に蹉跌を来す活動をしていたのである。

 東学農民軍としては電信線の切断や電柱を倒すことは日本軍と直接ぶつかることなく打撃を与えることのできる手段であり、電信線設置直後から散発的な攻勢がかけられていた。(*【海】9/9 )

8 25 日(陽暦 9 24 日)室田総領事が陸奥宗光外務大臣に送った電文に、京釜間の軍用電線は開通以来一ヶ月半も経たないが、不通になることが頻繁であり、実に・・・・9 回にも及ぶ”、と述べた.(*【海】9/27 )

日本軍が朝鮮人の殺害を意味する極端な命令を最初に下したのは電信線路の保護と関連してであった。これも現地指揮官や公使次元ではなく参謀総長熾仁(たるひと)が直接””電線を墓石、あるいは工事を阻害し若あるいはその他の方法を通じて軍用電線架設の目的を妨害するものがいれば適切な方法を使用してこれを排除”せよとの訓令を下したのである。兵站部駐屯兵も軍用電線の保護を追加任務とした。
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 8 月下旬(陰暦8月20日は陽暦9月19日)慶尚道の聞慶、醴泉、尚州一帯の東学農民軍が武装蜂起を準備した目的は日本軍を朝鮮から追い出すことであったが、当面の目標は洛東と胎峰の日本軍兵站部を攻撃することであった。醴泉一帯の東学農民軍が邑内の民保軍衝突しつつ花枝と금당실に集結し、竜宮邑内を占拠し武器を奪った事件は日本軍に警戒心を抱かせた。

8 25 日(陽暦9月24日)胎峰兵站部の副官である大尉竹内が兵隊 2 名とともに胎峰近辺の山陽の東学農民軍集結地を偵察したがこれが発覚し殺害されてしまった。そして兵士 1 名も手の指を切断され銃を奪われたまま帰隊しその顛末を報告した(*【海】10./6 )。この事件と天安で 8 12 日(陽暦 9 11 日)日本人 6 名が東学農民軍に殺害された事件が同じ時期に公使館から派遣された日本人巡査たちによって確認された。日本はこれらの事件を別途の部隊を増派する名分として活用した。もちろん鎮圧部隊増派は全羅道南原の金開南の勢力をはじめ全国各地で東学農民軍が本格的な武装蜂起を展開しているため成し遂げられたことであう。しかしながら東学農民軍の虐殺を予想するほかない日本軍の増派はこの二つの事件が直接の契機となったのであった。30

 日本軍後備歩兵第 19 大隊の鎮圧方針

再起した東学農民軍の鎮圧を指揮した日本軍指揮官は釜山に駐在した兵站監伊藤祐義歩兵中佐であった。主要方針は東京の日本政府や広島の日本軍大本営で最終決定されたが朝鮮に派遣された日本軍のなかで東学農民軍鎮圧の命令を受けた部隊は兵站網の運営を任された兵站監が指揮したのである。

 黄海海戦で日本海軍が勝利し黄海の制海権を掌握した後釜山兵站部は仁川へ駐屯地を移転し、伊藤中佐の職名も南部兵站監や釜山兵站監から仁川兵站監と記している。伊藤中佐は大本営陸軍参謀部の参謀次長兼兵站総監川上操六から直接指揮を受けた。即ち朝鮮を経て陸路を通って清国へ上る日本軍第 1 軍の兵站線を管掌した兵站指揮官が東学農民軍の鎮圧の責任をもつという事だ。

 日本軍第 2 軍が新に編成され第 1 軍の兵站指揮部も改編となった。訳注1894 10 月(陽暦)陸軍少将として歩兵第 8 旅団長を務めた福原豊功(ふくはらとよのり)が南部兵站監に任命され 11 月魚隠洞に移転した兵站本部に赴任した。この後も福原少将は仁川兵站監伊藤中佐に東学農民軍鎮圧の責任を引続き任せている。

 伊藤兵站監は日本公使館の井上馨公使に鎮圧状況を直接報告した。同時に日本公使館から朝鮮政府へ軍事作戦のための各種協力を強要するよう要請していた。東学農民軍鎮圧のために増派されてきた後備歩兵第19大隊各中隊の作戦派遣に鎮撫使と官軍などを動員させるようにしたり各道の監使と地方官に協助を要請することなどは公使館と協議した。

 釜山で日本政府を代表した総領事室田義文を一等領事加藤増雄、ソウルで公使が席にいないときこれを代理した杉村濬(すぎむらふかし)も東学農民軍鎮圧の先頭に立った人物たちだ。

 東学農民軍を鎮圧せよという命令を受けた日本軍に関してはすでによく解明されている。34主力は後備歩兵第19大隊の 3 個中隊であり、後備歩兵第 18 大隊の 1 個中隊(忠州、江原道派遣)、後備歩兵第6連隊第 6 中隊(仁川駐屯)、後備歩兵第4中隊と第 7 中隊の一部兵力(黄海道派遣)、釜山守備隊の 1 個中隊、海軍筑波艦(搭乗人員陸戦隊 251 名)、操江艦(乗組員 82 名)であった。(【忠清日報 10月初め】)

 ここに慶尚道と忠清道の兵站線路で近傍の東学農民軍組織を圧迫していた兵站部駐屯兵たちも含まれる。7 30 日(陽暦 8 30 日)に日本軍歩兵第 10 連隊の 4 個中隊が釜山に派遣されてきたが、その中の1,2,3中隊が釜山から松坡(ソウル)まで日本軍兵站部の守備を担当した。(*【海】8/2 8/30)

 日本軍兵站兵は『戦時編成』によれば、野戦隊・守備隊・補充隊・国民軍で構成されている日本軍の中では野戦隊に属した。したがって兵站線路近くの地域で活動していた東学農民軍が立ち向かったのはこれら精鋭兵であった。(*【海】10/2 10/5 10/9 10/5 10/11 10/16 10/19 10/24 10/28  【忠清日報】10月3日)

 後備歩兵は、満 20 歳から常備兵として 3 年間服務し、予備役として 4 年間を務めた後もう一度 5 年の服務をする兵士たちで構成された部隊であった。この兵士たちは経験が豊富で老練な兵士たちであった(*【海】8/27 )。日本軍は可能な限り常備師団を動員して清と戦いつつ後備歩兵第 18 大隊を派兵してソウル周辺に駐屯させ、また後備歩兵第19大隊を増派して東学農民軍鎮圧の任務を任せたのである。後備歩兵第19大隊は山口県に駐屯していた守備兵で 10 月はじめ(陽暦 11 3 日と4日)下関港を出発して仁川に上陸した(*【海】1895/2/2 )。

 この大隊は連隊や師団に所属する部隊ではなかった。正式名称である後備歩兵独立第19大隊からわかるように独立して任務を遂行する部隊であった。朝鮮に派遣されながら第19大隊は南部兵站監伊藤少佐の指揮を受けるよう配属された。東学農民軍鎮圧のため南下しながら第十九大隊長南少佐は朝鮮官軍を総て指揮する権限を持っていた。この指揮権は伊藤中佐が口頭で示達した命令であった。”仁川を出発するとき伊藤司令官から口頭示達として各路の韓兵たちを総て指揮せよという命令があったので、小官は総ての韓兵を指揮することになった。中路は清州に至り、そこに駐屯する軍隊(鎮南兵)が清州城を守っていたのでこれも小官が指揮することになった。”と表現しているように京軍のみならず地方の兵営の兵隊たちも指揮するという強大な指揮権を行使した。

 京軍を後備歩兵第19大隊に従属させる計画は日本公使が強要したことだった。外務大臣金允植に送った書簡は脅迫にも等しい内容で、東学農民軍がソウルまで入ってきたという説があるが、ソウルが”彼らの所有となるなら・・・貴国の億兆蒼生は一日も安全に暮らすところがなくなる”だろうと述べ、”7 26 日(陽暦8月26日)に両国は盟約を締結し清兵を国外に追い払うことを主旨として合意したが、今この匪賊たちが、敗戦した清兵たちと我が日本の兵士と人民を追い払おうという名分を押し立てて”いるので朝鮮と日本の両国軍隊が’匪党’の掃蕩に打って出なければならないというのであった。

日本軍が朝鮮人の殺害を意味する極端な命令を最初に下したのは電信線路の保護と関連してであった。これも現地指揮官や公使次元ではなく参謀総長熾仁(たるひと)が直接””電線を墓石、あるいは工事を阻害し若あるいはその他の方法を通じて軍用電線架設の目的を妨害するものがいれば適切な方法を使用してこれを排除”せよとの訓令を下したのである。兵站部駐屯兵も軍用電線の保護を追加任務とした。
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 8 月下旬慶尚道の聞慶、醴泉、尚州一帯の東学農民軍が武装蜂起を準備した目的は日本軍を朝鮮から追い出すことであったが、当面の目標は洛東と胎峰の日本軍兵站部を攻撃することであった。(【忠清日報】9/9革命軍が竹山・安城官衙占拠)醴泉一帯の東学農民軍が邑内の民保軍衝突しつつ花枝と금당실に集結し、竜宮邑内を占拠し武器を奪った事件は日本軍に警戒心を抱かせた。(*【忠清日報】10/8禮山観爵里戦闘 10/15槐山戦闘 10/18~21天安・細城山戦闘)

 外務大臣金允植はこの要求に即刻屈服した。景福宮を日本軍が包囲している状況で拒否することもできなかった。このため朝鮮の官軍たちには日本軍の指揮に従えと政府の指示がくだされ、京軍だけでなく各地の官軍は第十九大隊長南少佐の命令を受けることになった。

これとともに南部兵站監伊藤中佐は後備歩兵第19大隊の南下に鎮撫使と朝鮮官吏たちの同伴を要請した。これにはあるはかりごとが隠されていた。第一は、次の書簡に出てくる記録のように、各道の監使まで督励することができる朝鮮政府を代表する高位官吏を引き連れることで東学農民軍を威圧し、同時に日本軍の軍需物資と軍糧まで調達する官吏を随行させ軍事作戦の便宜を図ろうということであった。

1 鎮撫使 若干名:この官吏は必要な属官と桂冠等を率い日本軍に従って各地方に出張して監司・府使などを督励、東学党に利害得失と説諭し反省帰順させることに力を尽くす。

2 内務官吏 若干名:この官吏は終始日本軍に随行し隊長の命を受け地方のどこでも行き軍需物資と糧食などを調達、購買して人夫を募集し宿舎を供給するなどに関するこまごまとしたことがらを周旋し日本軍のために充分な便宜を提供し補助することに力を尽くす。このため付属官吏と巡査など必要な人員を同行させる。

3 以上の出張官吏の費用及び糧食などは日本軍隊で補助する。

政府では高位館員を日本軍とともに派遣することに好意的ではないように見えた。杉村濬書記官の督促を受けしぶしぶ派遣し、先発の館員も鎮撫使ではない慰撫使という官職を差し向けた。東学農民軍を鎮圧する任務より戦乱に苦しむ百姓たちに国王に代わって慰労する任務を優先する職務であった。

 これらの官員は日本軍分進隊と日程をすべて共にするわけではないがそれぞれ三南(忠清道・全羅道・慶尚道)に派遣され地方官と各兵営の地方軍が日本軍と協助するよう強制した。彼らの地位は大変高く、政府の大臣と監司を相手にするほどの人物であった。忠清道慰撫使は朴斉寛、全羅道慰撫使は李道宰、慶尚道慰撫使は李重夏であった。朴斉寛は忠清監使、吏曹判書、工曹判書、三道陸軍統禦使を歴任した実力者の一人であり、李道宰は承旨,吏曹参議、成均館大司成、工務協辦、軍国機務処委員を経て、すぐに全羅道監察使となり’討伐’を主導した。李重夏は白頭山の定界碑を調査した土門勘界使を担当した人物で吏曹参議、外務協辦を歴任して東学農民革命が始まるや慶尚道宣撫使として活動したが慶 道慰撫使となった。

 しかし日本軍はこれらの官員が彼らの意思のまま活動することを考えてはいなかった。”彼らが充分な処理をするとは期待できないので、適切に緩急をわきまえて過酷な手段を取るようにする予定です。こうすれば名目上一点の瑕疵もなくまた後日に問題を残すこともないと思われます。”という内容だ。過酷な手段ということは結局虐殺を意味するもので、行過ぎた虐殺が問題になる場合には朝鮮政府に責任を転嫁させることができるだろうという画策であった。

 その上伊東中佐は”この機会に朝鮮朝廷から閣下(井上公使)に守備兵派遣を要請する形式をとれるならすこぶるよろしいことだと思われます。”と述べた。朝鮮政府が東学農民軍鎮圧に日本軍を派遣せよと要求する形式を踏むべきという建議は単純な増派名分を得ようということだけのことではなかった。鎮圧過程で引き起こされる途方もない虐殺劇を予想して前もって防御幕を張ろうとした意図が見える内容であった。

(*【忠清日報】10/14忠州兵站部が東学軍攻撃開始
)
 後備歩兵第19大隊は 10 15 日(陽暦 11 12 日)竜山の駐屯地を出発した。兵站監伊東中佐が大隊に下した訓令と後に再度下した指示は次の数点に要約される(参考)。(*【海】11/14 11/17)

第一、忠州、槐山、清州に群集する忠清道の東学党と全羅道の東学党根拠地を探し出し剿絶すること、
第二、江原道に登る道を閉ざし北側境界線を越え国際問題化することを防ぐこと
第三、忠清道と全羅道の東学党を全羅道西南部に追い込んで虐殺すること。

 この方針に従って、第2中隊は西路分進隊として公州街道を進み、大隊本部と第3中隊は中路分進隊として清州街道を選び、第 1 中隊は東路分進隊として兵站線に沿って前進するよう命令が下った。大隊長南小四郎は東路軍と西路軍を遠隔指揮しながら第3中隊で構成される中路軍を直接率いた。大隊を 3 個の分進隊に分けた事は、伊東中佐に夜事前偵察と鎮圧計画によって、忠清道と全羅道の集結地から北上を準備していた南北接東学農民軍主力を制圧し、慶尚道と忠清道結ぶ兵站線路の危険を除去しようと言うのであった(*【海】11/28 )。

 そうして”東学党を撃破しその禍根を剿滅する事によって東学党が再興する後患を残さないようにしなければならない。”と強力な鎮圧を指示した。これは日本軍に虐殺を直接命令したということだ。この訓令は広島大本営から東学農民軍鎮圧に関して最高決定を下した兵站監川上操六の命令でもあった。

後備歩兵第19大隊中路軍の鎮圧策と東学農民軍の対応

「駐韓日本公使館記録」第 6 巻に載せられている「征討略記」は 1895 5 月(陰暦5月1日は陽暦5月24日)総理大臣金弘集が臨席した席で鎮圧軍指揮官であった南少佐が二回にわたって説明した講話である。南少佐は日本軍が東学農民軍を鎮圧する過程で直面した諸事件を処理しつつ指揮官として決定した内容に触れており、参席者たちから受けた質問に対して回答した内容が載せられている。この席では軍部協辦が参席したのであるがこのとき軍部署理大臣の地位にあった権在衡が政府の軍事の責任を負う人物であったため総理大臣と同席したものと思われる。権在衡は日本公使を歴任して軍部署理大臣を担当したがすぐさま大臣の位階に上った人だ。「征討略記」は鎮圧軍司令官が直接鎮圧と多い状況を説明し自身の意見を開陳した内容であり日本軍の作戦を把握するのに緊要な資料となった。この資料を見ると中路軍の活動と東学農民軍が対応した様子がわかる。

 この記録にはさまざまな質問を通して鎮圧過程を詳細に把握しており武器や軍事作戦にも掃蕩の知識がある注目に値する日本人が登場する。内務顧問楠瀬顧問官と表記されている人物は歩兵中佐楠瀬幸彦49であった。乙未事変訳注 の首謀者として記録されている楠瀬中佐はこの時内務顧問としてありながら東学農民軍鎮圧に直接関与していたのである。

 中路軍は石黒光正大尉が中隊長である後備歩兵第19大隊の第三中隊と本部兵力合計 202 名で構成されていた。ここに中隊長李軫鎬が引率する京軍教導中隊兵力 316 名を同行させた。将校たちを含めて 520 名というかなりの規模の部隊であった。

日本軍が朝鮮人の殺害を意味する極端な命令を最初に下したのは電信線路の保護と関連してであった。これも現地指揮官や公使次元ではなく参謀総長熾仁(たるひと)が直接””電線を墓石、あるいは工事を阻害し若あるいはその他の方法を通じて軍用電線架設の目的を妨害するものがいれば適切な方法を使用してこれを排除”せよとの訓令を下したのである。兵站部駐屯兵も軍用電線の保護を追加任務とした。
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 8 月下旬慶尚道の聞慶、醴泉、尚州一帯の東学農民軍が武装蜂起を準備した目的は日本軍を朝鮮から追い出すことであったが、当面の目標は洛東と胎峰の日本軍兵站部を攻撃することであった。醴泉一帯の東学農民軍が邑内の民保軍衝突しつつ花枝と금당실に集結し、竜宮邑内を占拠し武器を奪った事件は日本軍に警戒心を抱かせた。

教導中隊には監督と第 18 大隊所属の将校 2 名と下士以下兵卒若干名を配属させ日本軍の命令を直接受けていた。

 大隊長南少佐は東学農民軍の全貌把握ができていない状態のまま中路分遣隊を率いて南下を開始した。東学農民軍は各地ごとに独自の活動をしていたのだが南少佐は三南(忠清、全羅、慶尚)をはじめとして京畿道地域まで出現する東学農民軍が単一の指揮体系を持っているもののように見ていた。そこでもっとも早く遭遇した朝鮮人部隊を東学農民軍の先鋒隊と認識していた。西道分進隊は韓兵 2 個大隊とともに天安付近へ進軍したのだがそこでまず東学党の先鋒を発見した。彼らの人数が全部で何万なのかわからなかったが、公州を包囲しこれを陥落させようとしていただけでなく事前に天安まで斥候を送っており北上しようとする意図がすこぶる旺盛だった。”

 10 15 日(陽暦 11 12 日)中路軍が出兵する時期には忠州と槐山そして清州に集結している東学農民軍の存在がソウルに報告され注目されていた。壮衛営の兵隊を指揮した李斗璜に壮衛士を歴任にした扈衛副将申正熙が伝えてきた情報もこの一帯で活動していた東学農民軍の動態であった。

 しかし、中路軍はこの一帯で東学農民軍に遭遇する事はできなかった。京畿道安城と利川で蜂起して忠清道に入ってきた東学農民軍は広恵院(訳注:忠淸北道鎭川郡広恵院面:写真は現在の鎮川邑内)に集まっていたが 9 29 日(陽暦10月27日)鎮川邑内に押しかけ県監をはじめすべてを奪取した。

54忠州、外西村(忠州郡)、黄山を根拠地とする忠義大接主孫秉熙訳注は忠州一帯と麗州、広州、安城、利川、陰竹(利川の一部)の東学農民軍と合流して 10 6 (陽暦11月3日)日本軍と槐山で熾烈な戦闘を展開した。55

この時遭遇した日本軍は可興兵站部から派遣し2 個分隊の兵站部駐屯兵であった。この槐山戦闘は東学農民軍が日本軍を撃退した戦闘として詳細な戦況報告がある。

  日本軍は兵站線路にある忠州と利川近辺の東学農民軍によって日清戦争を支援する
兵站業務などが麻痺してしまった。そのためにソウルに駐屯する後備歩兵第6連隊の第 6中隊が緊急派遣された。後備歩兵第19大隊の中路軍が出発する前であったためにソウルに駐屯していた守備兵が派遣されたのであった。

忠州、可興、利川、鳥峴付近にも東学党が集まっているのでそれぞれ憲兵と守備隊を派遣致しました。しかし 15 日 貴 公使から送っていただいた電報を受け取り安城、武山へ派遣した朝鮮軍を後援するため竜山守備隊の大部分をそこへ派遣するなど、昨今の状況では釜山京城間の兵站地は東学党鎮圧の為めすべての事業を停止している実情です。・・・・畢竟東学党を撲滅しなくては我が兵站路、特に貴重な軍用電線の安全を期することはできないと思われます。

可興兵站部から上げられた報告文と第 6 中隊長山村忠正大尉の調査書は槐山に入ってきた東学農民軍が大規模であった事を教えてくれる。およそ 3 万名という数字まで報告されている。これらは陰竹方向槐山に入って来て、槐山を包囲し邑内に火を放つなど 5 時間にわたって戦闘を続け、日本軍に死亡者 1 名と負傷者 4 名の損害を出させた。 この戦闘は京畿道南部と忠清道北部一帯で活動していた東学農民軍が終結し、報恩へ移動しようと行軍していた途中、槐山邑内で日本軍と遭遇して起きた戦闘であった。後備歩兵第19大隊の中路軍は竹山を過ぎて支隊兵力を陰城、槐山、清安(槐山郡)、などに派遣したが、行軍路で遭遇すると予想していたこの地域の東学農民軍とは会わなかった。


 清州は中路軍の重要行軍目標であった。清州城が、9 24 日(陽暦10月22日)、東学第 2 世教主崔時亨訳注の起包令訳注 に従って蜂起した大規模な東学農民軍に集中攻撃を受けたのである。無心川訳注 をはさんで 5日間の攻防戦が続いた。この間清州牧使(観察使の下の職位)と忠清兵使が政府の救援を何度も要請したので、日本軍と同行していた京軍の各部隊は清州城を目標に直行し、後備歩兵第19大隊中路軍も清州へ向かった。(【忠清日報】10月21日洪城城の攻防 10月22日海美勝戰谷での勝利 )


 しかし、清州城から東学農民軍はすでに退却した状態だった。忠清兵使許長会が鎮南兵を指揮して反撃を加えると 9 28 日(陽暦10月26日)に後退し、報恩・文義方面へ去ったということだった。(【忠清日報】12/17報恩での殲滅戦)

従って清州城に入ってきた日本軍中路軍は
10 24 日(陽暦11月21日)と 25 日(陽暦11月22日)の二日間城内で休養を取り翌日教導中隊と一部の鎮南兵を率い文義へ進み東学農民軍と緒戦を交えることになった。

 10 23 日(陽暦11月20日 )ころ(*【海】11/18 慶尚道での戦闘 【忠清日報】11/18報恩、青山戦闘)、一ヶ月近く報恩と永同・黄澗などで日本軍との戦闘に備えて武器や軍糧を集めていた北接農民軍の大軍は沃川を経て論山へ向かった。孫秉熙統領の引率のもと全琫準が指揮を執り南接農民軍と合流するために出陣したのであった。この時すべての北接農民軍が論山へ行ったわけではないようである。数千の東学農民軍がこの時期を前後して文義一帯に出兵していたのは日本軍の南下を阻止するための処置と思われる。

 文義に集結していた東学農民軍は黄山と無極訳注 に集結していた京畿道と忠州の東学農民軍とは異なる組織であったようだ。清州城を攻撃した孫天民訳注 大接主などの組織を文義一帯に拠点を置いた呉一相の組織または姜建会の組織の中で論山へ行かず文義と清州一帯の防御を遮断するために単独残っていた組織であるかもしれない。


 南少佐は
10 26 日(陽暦11月23日)日本軍の斥候が”文義方面には賊徒が山の峰にぎっしり集結している”と報告するや、”作戦が相当混乱しているのではあるが、まず文義の賊徒を撃破しようとこの日の夜 12 時清州城をたって暗闇をものともせず進軍、明け方 6 時文義県に到着した。”

 東学農民軍は日本軍の威力をよく知っていた。そこで日本軍と遭遇したら交戦せず退避することにした。交戦する事になる場合は、避けることができない事情がある場合でも、1隊100 名の兵力優位を確保できた時だけとしていた。しかし、それでも東学農民軍が一方的な被害をこうむるのが常であった。それでも文義県至明一帯では戦闘が敢行された。

至明は村全体が渓谷の狭間にあり、前後左右がすべて山であり、10 里ほど下ったところに険峻な丘陵があった。この高地は戦闘に有利な場所であるために、日本軍が最初に占領し、ここを奪回しようとした東学農民軍を退けていた。四方を取り巻く山頂は東学農民軍兵士の衣服で真っ白に見えた。この人々は日本軍と戦うため多くの準備をしてきた。

 南少佐は東学農民軍を詳細に把握しようと努力した。敵軍も充分な準備を完了しているようだった。なぜなら炊事場のようなところもありまたその付近には地雷まで埋設されてあったからだ。東学徒は好くブル旧式の火縄銃をもっているに過ぎないと予想されていたのだが、綿密に偵察してみるに、かなり多くの元込銃を装備しており、また弾丸と火薬のようなものも相当に持っていた。レミントン銃80挺をもっていたのはすべて官吏たちの銃を奪取しもののようだった。

 文義の東学農民軍は村内で食事をとらず別途炊事場を設営して運営するだけの体制があり、地雷を埋設して接近を防ごうとする程の備えをしていた。新式小銃を 80 挺も確保していたという事実は驚くべき情報であった。旧式火縄銃より性能が優れた新式小銃で武装していたとすれば、日本軍の対応も慎重にならざるとえなかったのだった。

 教導中隊長李軫鎬は至明で起きた戦闘に対し両湖都巡撫営へより具体的な報告をしていた。


(*【忠清日報】11/16日本軍、公州城を発って南下開始)

さる10月26日(陽暦11月23日)日本軍大隊と鎮南営の兵隊たちが共同で懐徳へ進撃したが、匪徒数千名が川を間に挟んで陣を築いているためひとしきり混戦し数十名を追撃して殺し、朴聖燁など7名を生捕りし、その場所で銃殺しました。すると残党たちは四散し姿をくらましましたので、銃丸、旗、太鼓などの物件および牛や馬30頭を分捕りました。隊官李敏宏は1隊の軍士を率い報恩、清安などへ偵察したが接司安武玄など四名を捕らえその場で銃殺しました。(【忠清日報】11/23清州戦闘)

 至明戦闘中数十名を殺し、至明で7名、報恩、天安などで4名を逮捕し即時銃殺したのだが至明で敗北した東学農民軍は後退して増若に至り再集結した。その勢力は以前敏江 t強大であった。そのため中路軍は沃川一帯で足止めを食うことになった。増若の状況をそのままにしては公州へ移動することができなかったからだ。

 西路軍では大隊長南少佐に、”東学徒が進撃してきてほとんど包囲された格好になった。現在のところどうなるかもわからない危険な状態にあるのだがどうすればよいか?”と公州城が危急な状態である(*【忠清日報11/3公州・牛金峠戦闘】【海】11/28 1/28 )事を至急便で知らせてきた。南少佐は”今のところそちらへ行って救援することができないので、命令を下してひたすら死守せよ。城の外へでて戦うことは許さない”と篭城だけを指示したのだった。

 増若に集結した東学農民軍は頑強に日本軍と官軍に抵抗した。増若付近へ退却したあと迂回し文義を襲撃したのである。参考電報 そこで南少佐は日本軍将校が指揮する教導中隊1個小隊を増若と沃川へ派遣して収拾しようとした。ところでこの支隊も清州城へ撤収するに至った。増若と文義などにいた東学農民軍は日本軍の背後に回り前進を阻止したのでこれは効果があった。 その結果、燕岐へ向かった中路軍本隊も増若・沃川方向へ行軍路を旋回した。

 日本軍と正面対決して多くの被害をこうむった東学農民軍は沃川付近を離れ他の地域に退却した。そこで民間人にその行方を問いただしたところ、すべて錦山と珍山付近に向かって逃走したと言った。中路軍はもう一度支隊を編成して即時追跡させた。この支隊は増若付近で捕虜24名を捕らえまた途中で8名を捕らえ殺害した。

 中路軍は再度青山付近へ1個支隊を派遣したのだた、”この支隊は多くの敵を撃ち殺した。しかし日本軍は一命も死傷者を出さなかった。”という。この過程も教導中隊長李軫鎬の報告で詳細に伝えられている。

最近先鋒長李圭泰の報告をみると、11月5日(陽暦12月1日)教導所領官李軫鎬の偵察報告に”亜大監李謙済が兵隊一隊を引き連れ日本軍隊とともに青山から沃川などへ移動し、数万名の匪賊に遭遇するや殺したのであるが、銃殺したものが都合300名、生擒にしたものの中で首魁・徐道弼など9名はその場で撃ち殺し、接司李晩学など4名は本陣で厳重に監禁し、34名はすべて脅迫を受けて加担したものあるのでよく諭して帰順させ、捕獲した軍需物資は大部分の郡官衙が空白状態であり後患の憂えのないようにすべて破壊して焼き捨てました。”と述べている。

青山と沃川などに集結していた’数万名’の東学農民軍は至明と増若から退却した部隊もいたようであり、この地域で対日戦争の名分で蜂起した勢力もいたようだ。これらの地域の東学指導者はよく知られており、それは青山の朴泰鎔・金璟潤、沃川の朴錫球・李権容であった。日本軍と教導中隊の支隊が巡回しどんどん殺害した東学農民軍は300余名、逮捕された50名中9名が銃殺された。

 日本軍は青山などで虐殺した東学農民軍の数を明らかにしていない。殺戮した数が余りにも多いために意図的に隠そうとしたのではないかと思われる。教導中隊の報告は功績の認定を受けるためのものであるが、日本軍と共にその指揮を受けつつ参与した結果を報告したものである。ぴったり300名と言うことではなくその前後と確認した数であったと取るべきであろう。日本軍と教導中隊の支隊は戦闘または虐殺をしてそのまま移動したために正確に数を数えることはできないかったものもあり、死体の数を強いて数えまいとする意図もあったようだ。

 11月8日(陽暦 12月4日)中路軍支隊は永同、龍山訳注 へ入っていったが村の周りに圃塁を積み上げて防御していた東学農民軍はが他の場所へ移動した後だった。永同県監が陽山訳注 に集まっていると知らせるともう一度陽山へ追いかけていった。陽山でも行方がわからなかったので宿営することにした。夜になると1000名以上の東学農民軍が夜襲をかけてきたが、まもなく日本軍に発見され40名が戦死した。いわゆる陽山戦闘である。この戦いで捕獲した東学農民軍の武器は火縄銃2挺とやり20丁だった。40名が犠牲になった場所に残された武器がこの程度であるから、東学農民軍の火力が日本軍に比べてどれほど劣勢であったかが知られる。(*【忠清日報】12/11永同・龍山・青山戦闘)

  青山訳注 、沃川訳注 、永同訳注 で中路軍に押された東学農民軍は錦山へ入って来たがもう一度珍山訳注 、高山訳注 、龍潭訳注 の3方面に分散した。中路軍はこれにしたがって錦山に入っていった。”錦山へ入ってゆく道路は二通りあり、一つは沃川から山や渓谷の間を過ぎて通ずるもので、もう一つは永同から入っていくものである。本隊は渓谷を縫って進軍するので、通路が狭く険悪なで兵午が通過するのに言語に尽くせない困難を強いられた。”

 中路軍本隊が錦山訳注 へ入って行き支隊を指揮してまず入っていった白木誠太郎中尉が”各所の戦闘は有利に展開され20名若しくは30名ずつ敵を殺したことが三回もあった”と報告した。最小限錦山で60名から90名を殺したという報告であった。しかし、「錦山県付近戦闘報告」で白木中尉が賊徒戦死者として記録した人数は6名であった。最小限10倍から15倍まで東学農民軍の犠牲を縮小した報告であった。

 錦山で11月9日(陽暦 12 4 日)中路軍支隊と戦った東学農民軍はどの部隊であったのか。鎮岑訳注公兄訳注 が送った公文では10月に金開南の包(包は東学党の単位)5000余名が錦山あたりから鎮岑に入ってきたと報告した。そうだとすると9月には金開南包が錦山に入ったと言うことであり、白木中尉の支隊はこれと戦闘したということになる。金開南が率いた東学農民軍は各村内に押し入りながら過度な暴力を行使して民心を失った。「征討略記」にでてくる錦山一帯の惨状はこのような姿の一端を見せてくれたのであった。(*【海】12/8 )



 むすび

 

日本は1894年冬朝鮮政府から東学農民軍を鎮圧するために清軍の助けを求めた事を知り、前もって大規模の日本軍を派遣し、清軍を討伐し戦争を始めた。この戦争は事前準備が徹底していた日本軍が一方的に勝利する結果となった。しかし、平壌と鴨緑江沿岸で戦闘を展開する時期と旅順半島で決戦をした時期に東学農民軍が再起し日本軍に敵対するようになるや日本軍の軍需兵站支援が麻痺するまでに至った。このため日本軍は東学農民軍の地夏を目的に後備歩兵第19大隊を増派した。これは朝鮮の’保護国化’のために景福宮を奇襲占領し親日政府を立ち上げ、京軍兵営を奇襲して武装解除し、一連の軍事行動に続いて、もっとも大きな反日勢力排除の段階に踏み込むことでもあった。

 広島の大本営から下された’剿滅’命令は朝鮮に派遣された兵站監・伊東中佐に伝達され、伊東中佐は、後備歩兵第19大隊の南少佐と、ソウルと釜山に駐屯していた日本軍と各兵站部守備兵を指揮し、各地域の東学農民軍を大規模に虐殺するにいたった。

 後備歩兵第19大隊は3個分進隊に分かれ忠清道西海岸と、中部地域、そして東莱とソウルを繋ぐ兵站線を南下した。大隊長南少佐が指揮した中路軍は、鎮川・清州・文義・沃川・永同・錦山を縦断して連山(論山の一部)へ下った。その過程で文義至明戦闘・沃川増若戦闘・錦山戦闘を展開することになり各戦闘を経ながら日本軍上部の訓令の核心である大量殺傷を実行することになった。

 東学農民軍は日本軍中路軍を阻止するために与えられた任務に最大限の努力を注いだようである。官衙に保管された新式及旧式の武器を奪い兵力を大きく増強し日本軍と遭遇すれば高地を占領しこれらを撃退させようとした。

 しかしながら大部分の戦闘で一方的に敗北してしまった日本軍は何より一人一人の火器が東学農民軍より優れており、相当な訓練を受けていた精鋭兵であり、農民で構成された東学農民軍と戦闘力で比較にならなかった。

 日本軍中路軍の鎮圧過程をみると、鎮圧策の核心が端的に理解できる。戦闘で勝利し解散させるのではなく、指導者たちを捕らえ詳細な審問をと通して東学農民軍の実情を解明し再び日本軍に抵抗しないように根拠地を除去するのであった。これが成功した。政府から派遣した高位官員だけでなく、地方官の積極的な支援があって東学農民軍を鎮圧することができた。

日本軍中路軍は錦山戦闘以後最大の戦闘になった連山戦闘に取り組むことになった。この戦闘は牛金峙戦闘以後、南北接連合農民軍の積み上げた戦績を反故にし、東学農民軍を四方に敗散させる結果をもたらした。この連山戦闘まで続いた中路軍の鎮圧経験は全羅道西北端へ東学農民軍を押し込み壊滅させるのに’寄与’したのだった。

 後備歩兵第19大隊は西路軍と東路軍を合流させて長興・康津・海南・羅州一帯まで下り大規模虐殺劇に着手することになるのである。

(*【海】   12/17 12/19 12/25  1895/1/2 1/7全羅道の東学革命軍100万  1/2 1/5順天鎮定 1/9全羅南部鎮定  1/17全琫準(チョン・ボンジュン)逮捕の報  1/17報恩情勢  1/29宇和島士族の予備後備の留守家庭の赤貧 6/27後備歩兵第十九大兵士の虎狩  2/16全羅南部東徒鎮圧  2/18大屯山戦闘  2/19逮捕された全琫準将軍の証言 2/28後備歩兵第十九大隊、龍山帰着  ) 3/8天皇東学掃滅についての詔勅、後備歩兵第十九大隊に謁見  3/12東徒の巣窟は北部・九月山か  3/25北部銀波で東徒が兵站部襲撃  3/21北部海州で東学軍と攻防  4/11乱後の救済法  5/7全琫準に死刑判決  5/25後備第十連隊解隊 8/31後備歩兵第十九大隊病死兵の葬儀(風早) 9/13 9/13朝鮮政府、駐韓日本兵削減要求 10/8後備第10連隊の病死兵の葬儀(松山・太山寺)  12/3後備歩兵第十九大隊帰営  12/26~12/28 
(【忠清日報】2/3大屯山戦闘)



 

(投稿日:2007年5月1日 審査完了日:2007年5月27日)